煉瓦の赤い石畳の上を、人力車や自動車、それに馬車などが忙しなく行き交っている。白い塗料で塗られた西洋風の窓が額縁のように風景を切り取っていたが、これも既に見慣れたものである。
近頃の夏の気配漂う爽やかな風を受けて、季節の変遷を知る。街路樹に植わっている柳の枝が、さらり。青い葉の重みを受けて、美人の髪が如くに枝垂(しだ)れている。桜が終わり、季節は青。葉の緑が燦然(さんぜん)と目の奥を刺激する。
一旦、瞬きをしてから口を開く。
「わかりました。その依頼、この壱弐参一二三(いろはひふみ)がお請け致します」
くるり。窓辺から踵を返して微笑んだのは、柔和な顔立ちの青年だ。ともすると未だ少年の香を残したような顔立ちは、さながら森蘭丸が如き美貌である。年の頃は十七、八だろうか。絵巻物の中より出でたような容姿をしているが、上から下まで探偵助手に相応しいような洋装であり、焦げ茶のズボンがよく似合っていた。カッターシャツの襟の白さと、サスペンダーの革の色が、欧米人のような鳶(とび)色の髪と目を引き立てる。
「ええ、ええ…!お願いします、壱弐参さん。どうか娘を、娘を探して下さい…!」
さめざめと目にハンケチーフを押し当てながら啜り泣く、此方も洋装麗しい柳川(やながわ)婦人は、細い肩を震わせ涙声。久方振りの依頼人を安心させる為、帝都東京随一の名探偵、壱弐参一二三は益々以て穏やかな笑みを浮かべた。
【柳川公爵令嬢神隠し事件】
五月一日午後四時三十分、柳川公爵邸にて一人娘の千尋(ちひろ)嬢が忽然と失踪した。自室に書きかけの手紙があり、またインキ壺の蓋が開いていた事から、拉致されたものと見られる。柳川公爵は軍に捜査を依頼。然し依然として手掛かりはなく、とうとう昨夜、柳川公爵所有の柳川財閥より千尋嬢を発見せし者には賞金として財閥の持つ資産の半分を譲るもの也と公表が成された。
「あぁ、困ったなぁ」
紙面から顔を上げて、いろは探偵事務所所長にして唯一の社員である壱弐参一二三は青色吐息である。何故ならば、この柳川公爵夫人から令嬢探索の依頼を請けてしまったものの、何一つとして手掛かりを見付けられないでいたからである。
「人出も元手も足りやしないからなぁ…捜査のしようがないよ。うっかり夫人の勢いに押されて前金を貰うのも忘れてしまったし…」
はぁあ…最早、溜め息しか出ては来ない。
かれこれ三日も、殆ど水と、以前の依頼人から貰ったしけた乾パンの屑しか口にしていないのだ。
嗚呼、貧乏が憎い。目が霞む。
「新聞紙って…煮込めば食べられないかな?うん、そうだ塩味にすればきっといける」
「あー、予想はしてたけど相当危ない状態だねぇ」
間延びした、然しよく響くバリトン・ヴォイスが壱弐参一二三の思考に水を差した。
どうやら新聞紙の水煮に思いを馳せている隙に、上がり込んだらしい。将に、勝手知ったるなんとやら。
仰々しいサーベルを腰に備えた軍人が、土足のまま来賓用の長椅子で寛(くつろ)いでいた。軍帽を無視して、よれた服装と寝癖の付いた髪、それに造りは綺麗な癖に非常に気怠そうな顔が、詰め襟の上に乗っている。恐ろしく長い手足は昆虫を彷彿とさせるが、十人中十人が黒猫のようだと答えるであろう。
彼こそは國武義燕(くにたけぎえん)、齢三十二にして日本国軍大佐を務める、歴とした将校であり、壱弐参一二三と奇縁で結ばれた悪友である。
「義燕くん、一体何の用で来たんだい?」
こほん。一つ咳をしてから、壱弐参一二三は尋ねた。依頼人でないのならお帰り願いたいという意味で皮肉を滲ませるが、國武義燕はどこ吹く風とばかりに答える。
「んー?ちょっとしたお食事のお誘い」
「食事?」
訝しむ部屋の主に対し、奔放な不良軍人は指先で摘んだ紙片をひらひらとさせながら、眠そうな目を三日月型にして笑う。
「私だって暇ではないし、どうせなら素敵なお嬢さんと行きたい所なんだけどねぇ。これは金風楼(きんぷうろう)の予約票」
「是非行かせて下さい大佐殿」
壱弐参一二三はあっさりと食という誘惑の前に陥落した。何の挨拶も無しに上がり込んだ非礼に対する怒りだとか、口振りからして軍部の持ち込む厄介の足掛かりであるとかの云々が、一切合切金風楼の三文字の前に霧散する。
件の店は若き日に国家の特別許可を得て、遠く西欧まで行き修行を積んだ料理人が営業している有名店だ。二日も煮込んだビーフシチューが絶品との評判で、予約は半年先まで埋まっている。國武義燕が指先で弄んでいる、名料理店の蝶と牡丹のシンボルマアクを箔押しした紙切れは、全国の美食家達垂涎(すいぜん)の代物なのである。
「じゃ、時間もそろそろだし行こうか」
外に待たせていたらしい、少年の色を残した國武義燕の部下が恭しく扉を開ける。外には既に人力車が二台用意してあって、壱弐参一二三と國武義燕が先に乗り込んだ。部下は一人で後の車に乗っている。
「で、大佐殿、今回は一体何の用件だい?」
にっこり。悪戯好きな子供のように壱弐参一二三は微笑むが、心の中には無邪気さと百戦錬磨の権謀術数が同居している。
颯爽と走る車夫は仕事に夢中なのか賢明なのか、二人の会話を聞いてはいない。抜け目なく、それを確認した上で切り出したのだった。
初夏の風を受けて、癖の付いた鳶色の総髪が靡く。
國武義燕は顎に手を当ててから、独特の調子を崩さない語り口で以て切り出した。
「壁に耳あり障子に目あり。個室を取ってあるからそこで、って言わなきゃいけないんだろうけど、先生ならどうせ全部知ってるだろうからねぇ…単刀直入に言うと、柳川千尋嬢誘拐事件、全部こっちに渡して欲しいんだよねぇ」
「断る。柳川公爵が軍に捜査を依頼したのは知っていたけど…君が来るって事は、裏金でも動いているのかい?」
「御明察。軍が事件を解決すれば、先十年に渡って軍費の一割を柳川家が負担するという申し出があってねー…参っちゃうよもう」
「成る程…それで、ヘルメースに連絡して裏は取ったのかい?」
「ヘルメース?」
両手を顔の横に上げてわざとらしく肩をすくめてみせる國武義燕には、隠し事をする気は毛頭ないらしい。だが、軍人には軍人で、常にややこしい事情があるものだ。
「大体の状況は分かったよ」
「うん、先生相手だと会話が楽だねー。あー楽」
「珍しく、苦労をしているみたいだね」
確かに、先程会った茶色い髪の青年士官はいかにも生真面目そうだったから、自由奔放な國武義燕には面倒なのだろう。
「所詮は公僕だからねぇ」
日本国は鎖国事変にて閉ざされし神が庭にあれど、一度知って根差した舶来文化は数知れず。軍事技術に医療の手段。その種類は様々あれど、国民に一番関心のあるのは、西欧の食卓事情に違いない。
まるでそれを立証するかの如くに、次から次へと探偵・壱弐参一二三は胃に収めていった。まさに鯨飲馬食、細く貧弱、平均よりもやや小柄なその身体の何処に余裕があるのかと、給仕が呆然としている程だ。
拳よりも一回りも大きな丸パンを六つ、料理人自慢のビーフシチューをあっという間に食べ切って、サラドにスープに、食欲がないからと言った國武義燕の分も順調に嚥下して、後には鴨の焼いたのやら西洋風の雑炊やら迄頼んで、至福の表情で食べているのだから、まるで幼い子供のようだ。
「義燕くんありがとう。本当にありがとう。この恩は忘れないよ!」
「あー、うん。絶対に、とか恩返しする、とかって言わないのが先生の良い所だよねぇ」
ひたすら葡萄酒をちびちびと飲んでいた國武義燕は、壱弐参一二三の食べっぷりにも呆れずに、ただただ感心したように観察している。然し、その部下はといえば卓の傍らに立ち尽くした儘絶句している。此方が正しい反応であると言えよう。
「あ、すみませんチョコレヰトケーキとシュークリームとタルトもお願いします」
尚も恍惚と咀嚼を続ける赤貧探偵の食事代は、成人男子七人分に相当した。
店から出て、手配していた人力車に乗った壱弐参一二三を見送って、國武義燕大佐の部下たる青年将校・綾橋左近(あやばしさこん)兵長は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「大佐、宜しいのですか?」
「何が?」
「あのような探偵に食事までさせておいて…お言葉ですが、公費の無駄ではないかと」
若輩ながらも、無意識下であの柔和な男が慇懃無礼なのを感じ取ったらしい。まだまだ青臭いが、将来有望だ。
「左近、お前新聞読んでないの?いろは事務所は度々難事件を解決してるんだけど」
「知っています。ですが…」
「あー、左近」
遮るように言って、國武義燕は後ろに控えた綾橋左近に振り向いた。
「言っておくけど、あの人、お前の十倍強いよ?」