神前竜堂青年は、柳川夫人に引き取られる形で居候となった。
元はといえば、夫人と彼の母親が女学校時代からの友人であったのが縁だ。十四の年に流行り病で父母が亡くなり、奉公という形で屋敷に置かれたが、実際には息子のように扱われていた。だが、柳川寛一氏は妻のそうした姿勢に賛同せず、また、嘗(かつ)て少年であった神前竜堂も客分であるのを吉としなかった。故に、唯一得意とする武道に励み、用心棒として庭師小屋の隅に起居している。まだ子供であった時分には、令嬢たる千尋嬢とも兄妹のように親しくしていたが、直ぐにその習慣も消えて失せた。
今も三つ年下のお嬢様を庇護せねばと思っているが、未然に事件を防げなかった。悔やむ気持ちは勿論あるが、後悔などしている隙はない。何よりもまず、例の失踪事件改め誘拐事件を解決し、千尋を救出しなくてはならない。その後に腹を切るなり何なりすれば良い。
だが如何せん神前竜堂にはその為の力と知恵がない。何処を探し、誰を疑えば良いのか一向に解らぬ。
だからこそ、捜査に協力して欲しいと言ってきたかの名探偵・壱弐参一二三からの申し出を、渡りに舟とばかりに話に乗ってみたのだが――…
「こいこいしやすか?」
着物をはだけさせ、腹まできつく晒しを巻いた男が尋ねてくる。下から掬い上げるように睨め付けてくるのは、手元の物を見ていたからだ。互いに胡座を掻いて座った間の畳には、季節折々の風物が描かれた札が並んでいる。
「…こい」
仏頂面と評判の顔で、低く呟いた。手にした札から一枚を出す。桐に鳳凰の図案だ。中央に表を上にして並べられた数枚の札の内、同じく桐を描いたものがあったので、それを取る。次に裏返して置かれた山札から一枚捲ると、こちらは松に赤い短冊の図案で、迷わず場に出た札の内、松に鶴のものを取る。
店側の男が唸った。手元にある札は他に、桜に幕、桜に赤い短冊、薄に月、薄に雁、そして菊に杯と、菊に青い短冊である。
どうやら、高い役でも出来ているらしい。
「凄いですね、先生!」
隣では、本来先生と呼ばれるべき立場の男――壱弐参一二三がメリヤスのシャツの上から小袖と袴を着込んだ書生の姿で、無邪気な風に声を上げている。勿論、言動の一切は演技だ。
その壱弐参一二三の手が親指を中に仕舞って握られているのを見て、神前竜堂は自分の番が回ってくるのを待って、言った。
「勝負」
男の青くなった顔が事態を物語っていた。周囲の見物人が息を呑むのが何とも居心地が悪くて、神前竜堂は逃げ出したくなった。
何故このような場所に居て、花札などという遊興に耽(ふけ)っているのか、一向に解らぬ。おそらく壱弐参一二三には何か考えがあるのだろうが、赤煉瓦の壁も鮮やかないろは探偵事務所に着くなり、簡単な指での暗号を打ち合わせて、下町の更に奥の奥へと連れて行かれた。そも、事務所にて壱弐参一二三が書生の服に着替えた時点でおかしいと思うべきだったのだろう。胡散臭い、雑然とした呑み屋の前で「じゃあ、今から君は偉い俳句の先生で、僕はその弟子の書生という事で行こう」と言うなり、中に入った。そうしてあれよあれよという間に地下通路を通って、高雅な造りの日本家屋に足を踏み入れたのだった。
神前竜堂は少年期から西洋風の習慣のある柳川家にて育った為に、花札など今の今まで触れた事がない。役も精々が猪鹿蝶位しか知らぬ。
従って、勝負の流れは万事隣の壱弐参一二三が取り仕切っているのだが、此処まで中々順調のようだ。
延々やっている内に何となくは勝手が分かってきたが、どうやら札の柄を合わせて幾つかある役を作って行けば良いらしい。一勝負で試合は十二回あって、総合点の高い者が勝ちとなるようだ。予想するに、一点千円かそこらで張っているのであろう。
「すげぇな…」
「さっきから雨入四光に月見で一杯、雨四光、四光に花見で一杯…その上、カスも手堅く作ってやがる」
「あの先生何者だ」
ざわざわと小声で言葉が交わされる中、相手の男が一礼をしてからそそくさと奥へと下がる。
待ち惚けを食う一方で、襖の向こうの隣室でも驚嘆の声が聞こえてきた。気を効かせたのだろう、壱弐参一二三が襖を開けると、彼方でも厳めしい店の男を相手に、大差を付けている客が居た。驚くべき事に、背中に鮮やかな鳳凰の刺青を入れた男と対峙しているのは、小鹿のように可憐な少女であった。女学生だろう、菊と秋草の薄黄色の小袖に蓬(よもぎ)色の袴を履いている。髪は左右の高い位置に作った三つ編みを輪のようにしている。前髪も切り揃えてあって、映画女優のように美しい顔をしている。
どうやら彼方も大勝ちしているようだ。
「先生は、運が良い」
壱弐参一二三が囁いた。
すると、今度は顔に大きな疵(きず)のある、やや背の低い、四十絡みの男が現れて、手招きをした。胴元、と呼ばれているから、この賭場の管理者であるのは間違いない。
「そこの学者先生と、姉ちゃん、あんたも来い」
有無を言わせぬ気迫で告げられて、店の奥へと誘われた。自然、神前竜堂が先頭になるので、後から壱弐参一二三と少女が続く形になるが、その二人が目線を交わしていたのには誰一人として気付かなかった。
さて、奥の間へと通されて後、何やら不穏な空気が垂れ込めているのは素人の神前竜堂青年にも理解出来た。察するに、二人も若い者が大勝ちしているものだから、いかさまではないかと疑われているのだろう。確かに、壱弐参一二三探偵に監督して貰っているからか、上手く行き過ぎた感じではあるから、仕方がないのやも知れぬ。
「今から、あんたら二人、こいこいで一点百万で張って貰う。いいな?」
胴元が告げた言葉にぎょっとした。百万などとは、一介の浪人に過ぎぬ神前竜堂には途轍もない金額だ。こいこい、とは先程までやっていたのと同じ遊びで、一対一で張る競技だ。詰まり、どちらかが損をする事になる。
だが少女と、壱弐参一二三が何も言わないまま所定の位置に着くので、神前竜堂もそれに従った。最早拒否権などないと悟ったからだ。
「…あいわかった」
神前竜堂は、腹を切る覚悟を決めた。
然して、結果は驚くべきものとなった。両者共に総得点はぴったり百。おまけに十二回ある試合の内、零点を互いが交互に繰り出しているという状態。勝負を見守っていた店の者達も唖然としている。誰も彼も、まるで狐に摘まれたような顔をしていた。
見事な引き分けだ。どちらも損をしていない。
「っ、はっはっは!こいつぁやられた!」
呵々大笑。胴元が笑い飛ばした。
真っ直ぐに顔を上げた三人の客を眺めて、腹を抱えている。すかさず、少女が口を開いた。
「これで、勝った分のお金はわたくしのものですね?」
「ああ、だが姉ちゃん、それじゃあこっちの面子が立たねぇ。帰んな」
「いいえ、寧ろ私のような小娘に大負けして、賭け金を払わなかったとなれば、噂になって困るのは親分さんですわ。ですから、私、この賭けで勝ったお金で、ここから買いたいものがあります」
鋭い眼光にも臆する事なく交渉を続ける少女の豪胆さに、改めて一体何者なのかと思っていると、桜色の唇から驚愕すべき言葉が飛び出した。
「柳川千尋嬢の居場所、教えて頂けません?」
途端、胴元の顔から笑みが消えた。少女は更に続ける。
「わたくし、針屋静(はりやしず)と申します。心中屋、と言えばお分かり頂けますね?」
微笑む少女、針屋静の正体を知った周りの男達が一斉に一歩、後ろへと下がった。
壱弐参一二三ばかりはほほう、と面白い玩具を見つけた子供のような顔をしていたが、神前竜堂は信じられない思いで一杯だった。