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汽車に乗って、光の群れが消えて、どれくらい経っただろうか。

ゆっくりと浮かんできた疑問を口にするのに、少女はまた少し時間をかけた。車掌が答えを知っているかどうかもわからない。
「わたし」
それでも聞こうと決めて、少女は初めて、『自分』の事を聞いた。

「わたしは…誰なの?どうしてあそこにいたの?」
「…やっぱり、覚えてないんだな」
「うん」
不安げに頷く少女は白い。
単に白い服を着ているからではなく、肌がやたら白いという事でもなく。淡く発光している少女を見つめ、車掌は表情を曇らせた。


「君は悪くない」
膝に垂らしたままだった腕を上げて、車掌は少女の頭を撫でた。少女は車掌を見つめ、彼につられて悲しい顔をする。
「本当…?」
「あぁ」
その黒い瞳を見つめる内に、少女の頭に別の景色がよぎった。
見慣れていたはずの町の風景。暖かい母の手の感触、楽しげに笑う自分の声。

「君は、歩いてただけだから」
少しずつ少しずつ 記憶がじわりと浮かび上がる。赤いランドセルを背負って歩いていた自分の姿。家で待っているであろう母の顔。
「君は何も…悪くない」
まるで見えない涙が流れているような少女の頬を、車掌は大きな手で優しく拭った。手袋に包まれた手の熱が奪われる。少女の肌は、氷のように冷たい。
「…そっか」
少女は静かに呟いた。


学校の帰り道。
急に自分の周りに大きな影ができて、道路を見た。
避けられない距離まで迫ったものが何かを判別した時には、もう。


少女は悲しげに笑った。
「もっと、生きたかったな」
決して叶わぬ願いを言葉にし、立ち上がる。夜空の向こうには暖かな春の花畑が広がっていた。汽車が進むのとは違う方向にあって、距離も遠い。
「あそこはね、お母さんが大好きな場所なの。お父さんと初めて会った場所なんだって」
少女を包んでいた淡い光が強くなった。体の輪郭がぼやけて薄れていく。
「…あそこに行ったら、わたしも2人に会えるかな」

「会えるよ」
車掌は言い切ると、帽子を僅かに持ち上げた。普段の無表情とほんの僅かしか変わらないものの、確かな微笑みをみせる。
「俺がこの汽車で送り届けるから。…君は少しだけ、待ってればいい」
「…うん」
柔らかな光に包まれて、少女は嬉しそうに頷いた。辺りを照らしていた少女の光は徐々に淡い灯となり、月の光が頼りの薄い闇が戻ってくる。

「ありがとう、車掌さん」
最後に少女の声を響かせて、光は遠く、星空の彼方へ消えていった。



とっとっとっとっ
明かりの消えた客室車両の屋根を、うさぎの車掌が走る。
客室車両と先頭車両の間にある隙間を飛び越え、蒸気を噴き出す煙突を器用に避けて、車掌のすぐ後ろに座った。白い少女の姿は既になく、車掌は胡坐をかいて背を丸めたまま前を見つめている。

「あの子、ちゃんと記憶が戻ったんだね」
「…あぁ」
車掌がぼそりと呟くと、うさぎの車掌の耳がぴくりと動いた。声のトーンが少し低い。ああいう記憶のない客がいると、彼はよくこうなる。
「良かったね、本当の一人ぼっちにならなくて」
うさぎの車掌は努めて明るい声で言って、車掌の背を肩で小突いた。
「元気出して。元気いっぱいの君って、見たことないけど」
「……性分だ」
「知ってるよ」
おどけた声で言う。
車掌がなんとも言えないしかめっ面になるのを無視して、うさぎの車掌は強引に彼の隣に移動した。仕方なく胡坐をやめた車掌と並んで、同じ方向をじっと見つめる。


「あのさ、君が月に来てくれなければ、僕はずっと一人だったんだ」
「…お前に会わなければ、俺もずっと一人だったな」
「うん。だから僕は、君が居てくれてよかったって思ってるんだよ」
「何回も聞いた」
「お互いにね」
くいっと口角を上げて、うさぎの車掌は笑う。
同じ方を見ていては相手の表情は見えなかったけれど、隣で車掌も笑っているという事を彼は知っていた。

うさぎの車掌は、僅かにずれていた揃いの帽子の位置を直す。そして前足でてしてしと車掌の膝を叩いた。
「ねぇ、汽笛を鳴らして。景気づけにしてさ、僕たちも帰ろうよ」
「…あぁ。帰ろう」


月明かりに照らされ星々に導かれ、汽車は走る。
たった2人の車掌を乗せて、どこか遠くの休息地へと。

またいつか人々を送り届けるために、約束を果たすために。
海を渡り空を駆け雲を抜け、速度を増して突き進む。


鳴り響く汽笛の音はどんどん遠ざかり、やがて紺色の空に消えていった。