平成盗跖の伝手で、帝都一速い車夫がすぐさまやって来た。やくざ上がりの走り屋は、事情を察するとすぐに黙って乗るように顎をしゃくった。
「やあ、良い夜だね。君、昨日義燕が支度した車夫だろう?階氏も矢張り、抜かりがないなぁ」
「…何の事だか、あっしには」
「うん、わかっているよ。それで、早速なんだけど、こないだと同じ所に運んじゃくれないか」
颯爽と走り出した人力車の上で、賭場の者から拝借した刀の拵えを撫ぜながら、神前竜堂青年が尋ねる。
「この間の所、とは?」
空はもう濃紺。雲に映る紅色と、太陽が引く薄黄色の尾が美しい。
そろそろ勤め人が家路を急ぐ刻限に、柳川邸でも別荘でも、はたまた財閥の事務所でもなく、一体何処に行こうというのか。
「行けば分かるさ。晩餐には良い刻限だ」
紳士らしく優雅に足を組んだ壱弐参一二三の発言から間もなく、車夫が歩を緩めた。
どうやら、目的地に着いたらしいが、怪しい場所は何処にも見当たらない。市街地の中心からほど近い、煉瓦の敷き詰められた公道のただ中がある。
「ああ、残念だ。名店が一つ潰れるなぁ」
大仰に嘆く壱弐参一二三の視線の先には、これも矢張り赤煉瓦造りの建物があった。扉の横には色硝子を使った、丸い縁取りの牡丹と胡蝶を使った看板が下がっている。
金風楼、という名前には聞き覚えがあった。店の出資金を、柳川財閥が出していたからだ。成る程、ここならば直ぐには思い付かない。
「料理人には申し訳ないが、突入するよ。覚悟はいいかい?神前竜堂くん」
「無論。命に換えても」
「換えられちゃ困るんだよ」
年上らしく窘めるように言われて、出鼻を挫かれると同時に緊張が解けてゆくのが分かった。恐らくは、気使いからの発言だろう。神前竜堂は稚拙な己を恥じた。
壱弐参一二三は既に短い階段を上って、ドアーノッカーを使って戸を叩く。突入、という強い語に反して、穏やかなやり口であった。中から「いらっしゃいませ」という男の声がある。
「夜分に申し訳ありません。ボクは柳川夫人に雇われた探偵で、壱弐参一二三という者ですが」
「柳川夫人に?」
直ぐに扉が開いて、いかにも善良そうな顔立ちの、給仕長と思しき中年男性が出てきた。年は四十半ばか後半。よくよく考えれば壱弐参一二三と同年代だが、見た目には恐ろしく年が離れているように思えて、神前竜堂は改めてゾッとした。「はい。この通り、夫人直筆の書状もあります。身分証明書も此方に。少々、お話を伺っても宜しいですか?」
「ええ…構いませんが、奥様から一体どのようなご要件でしょうか?」
垣間見える店の中は、夕食時のせいか客で席が埋まっている。優雅な会食を楽しむ人々が醸し出す和気藹々とした雰囲気に、神前竜堂が見当違いなのではないか、と疑いの念を持った時だった。
「ちょっと失礼します」
壱弐参一二三が立ちふさがるように前に居た給仕長の脇をスルリと擦り抜けて、真っ直ぐに奥へと向かう。制止の声が届かぬ内に、迷わず早足で進んでゆく。すかさず、神前竜堂もそれに従った。
「ごめんなさい、失礼します。失礼します」
柔らかい物腰と柔和な表情を崩さぬまま、壱弐参一二三はホールを通過し、更に喧騒に包まれる蒸し暑い厨房を突っ切ってゆく。
「神前くん、上がるよ」
厨房の奥の奥にある鉄の扉を開けると、吹きさらしになった黒い螺旋階段を上って、二階へと向かった。かんかんかん。革靴を規則的に鳴らして雲雀のように天へ登ってゆく様は、まるで普段とは別人だ。真実、彼こそが帝都最高の探偵、尊敬すべき義侠の人と、誰もが納得するだろう。
「鍵が掛かってるな…神前くん、破ってくれないか。自慢じゃないが、僕は見ての通り非力でね。頼むよ」
「あいわかった」
狭くて小回りが効かないが、今こそ日々の精進がものを言う。神前竜堂はそう意気込むと、息を深く吸って吐いて、ドアーを室内へと蹴り入れた。蝶番が外れ、澄んだ音を立てながら床に転がった。
よもや十九の若者、それも便宜上は一応、一般人である筈の人間が、鍵の掛かった鉄の扉を蹴り破るなど、尋常ではない。規格外の身体能力だ。知人に國武義燕という剣道の達人が居る壱弐参一二三も、流石に目を丸くした。
「凄いな…本当に腕が立つのだね」
「そんな事よりも、千尋は」
「ああ、きっとこの奥だ。急ごう」
辺りを警戒しながら、壱弐参一二三が先導する。狭い廊下、向かって右奥の部屋を選ぶと、矢張りここにも鍵が掛かっていた。
「千尋!」
またしても神前竜堂が扉を蹴り抜くと、電灯の光に満たされた室内の中に、柳川千尋嬢が居た。矢羽根柄の小袖に、臙脂色の袴を履いて、長い黒髪をマガレイトに結っている。泣き黒子が印象的な、針屋静とはまた違った趣の美少女であった。
粗末な机に向かい、書き物か何かしていたのだろう。立ち上がって、振り向いた。
「危ない!」
千尋が叫ぶ。
ぎぃん!刃と刃がぶつかり合う音が耳を擘く。部屋の内に控えていたのだろう、真剣を持った男が三人、此方を睨んでいる。気迫からして、素人ではなさそうだ。
間一髪、抜刀が間に合って神前竜堂はぎりりと嫌な音を立てて壮絶な鍔迫り合いをするが、如何せん相手が多過ぎる。部屋のそう広くもないのも相俟って、不利なのは瞭然だった。
「止めて!止めて頂戴!竜兄様よ!私を迎えに来てくれたのよ!止めて!」
千尋が身を乗り出して叫ぶが、男達はそれを無視し、一人が雇い主の娘である少女の腕を乱暴に掴んだ。白い手首に痣が付きそうな程で、漸く、千尋は自分の置かれた状況が何たるかを理解した。
公爵はきっと、邪魔立てするのならば神前竜堂青年であっても殺してしまえと命じているのだろう。敵には遠慮がない。だが然し、神前竜堂青年は並外れた力を持ってはいるものの、見ず知らずの者を手に掛けるのを躊躇っている。倒されるのは時間の問題かと思われた。
パンッ!
パキンッ!
「感心しないなあ、そういうの」
一体何が起きたのか、壱弐参一二三以外の人間が理解するのに、たっぷり数秒を要した。一斉に入り口に立つ男に視線を注ぐが、その手に持った短銃の銃口から、細く煙が上がっているのを見ても、彼が発砲したとは、どうしても思えなかった。
余りにも気負いがなかったからだ。
単なる事実として、壁に食い込む鉛玉と、敵の刀が折れて床に落ちているという現状があった。敵の男の手からは痺れにより、柄さえも離れている。
手前に神前竜堂が居たというのに、視界が悪い中で刀を折ったというのか。
「あと五発ある」
千尋を拘束する男に、ゆっくりと銃口が向けられた。
「命を取るつもりはない。予告するよ。足を狙う。勿論、腱や筋は撃たない。回復すれば、普通の仕事は出来るように――…」
慈悲深い思想を支えるように、澄んだ鳶色の瞳と銃身には、強く鈍い光があった。
綾橋左近兵長が数多の一等兵や二等兵を引き連れ金風楼に踏み込んだのは、銃声がしてから約一時間後であった。
「壱弐参一二三!一体どういうつもりだ!」
「やあ、綾橋…左近くんだっけ?流石義燕の右腕。行動が早いなあ」
軍人達の先頭に立った綾橋左近兵長が壱弐参一二三に詰め寄るが、まるで堪えた様子はない。顔を真っ赤にして怒る青年将校は、尚も声を荒げる。
「とぼけるな!赤坂の事務所に突入したが、あちらはまともな事務所だった!大佐からの電話がなくては、危うく見過ごす所だった!」
軍支給の、無骨な銀色に金で菊紋が入った携帯電話を掲げて、綾橋左近兵長が主張する。
固定電話ならば普通だが、他国に傍受される可能性があるとして、電波を使う携帯電話は軍人と、政界人しか持っていない。故に、それはまさしく国家権力の象徴である。
が、残念ながら綾橋左近兵長の携帯電話には、上官におふざけで付けられたのだろう、千鳥の縮緬細工の根付けがぶら下がっているせいで、余り効果はなかった。
「まあまあ、この通り、探し出した裏帳簿は渡すし、千尋嬢も無事保護したのですから、そう怒らずに」
「違う!一般人が危険な事件に首を突っ込むなと言って…」
「おっと」
くる。ぱし。ドンッ!
胸倉を掴まんばかりに大声で説教をする綾橋左近兵長であったが、途中で絶句する羽目になった。
壱弐参一二三の背後から襲い掛かってきた男の獲物を難なくかわし、手足の流れるような動きで以て宙に浮かべて、文字通り「回した」のだ。強かに後頭部を打ち付けた敵は脳震盪を起こしたらしく、目を回している。柔よく剛を制すといった呈であった。
「ああ、他にも二人居るから、捕縛して貰えますか?」
苦笑いして壱弐参一二三が頼むが、未だ目にしたものが信じられないでいるらしい。綾橋左近兵長を始め、後ろに控えた若い軍人達も口を開けたまま動けないでいる。
「合気道の心得が?」
「うん。恥ずかしながら、若い頃から貧弱でね。これなら年を取ってからも自分の力を使わないから、使えるなと思って始めたんだ」
もうすっかりこの奇妙な探偵に慣れたらしい神前竜堂青年は、呑気に雑談を決め込んでいる。後ろに控えた千尋嬢も、落ち着いた様子でいるから、場にそぐわぬ長閑な雰囲気が漂っていた。
「あー、うん、やっぱり予想通り皆固まってるねー」
「た、大佐」
入り口から部下の間を擦り抜けて、國武義燕大佐が到着した。尊敬する上官の登場に、漸く綾橋左近兵長が我に返る。
「あっ、も、申し訳ありません!只今捕縛致します!」
「はい、じゃあ皆も残りの下手人捕縛して。後の人は現場検証と…あとそこの君、帳簿を柳川邸に大至急。柳川公爵が証拠がないなら署まで行かないって強情でねー。ま、証拠を押さえれば後はこっちのものだから」
次々と人に役目を割り振って、効率良く仕事を片付けてゆく姿は堂々としていて隙がない。実力で権力を勝ち取ったのが伺える。しかしそれにも負けず劣らず、壱弐参一二三もただ者ではない空気を纏っていた。結構な人数が居る中で、二人だけが目立つ。
「ヘルメースとアフロディテは上手くやったかな?」
「あー、仕立て屋は上手くやったって、夜から連絡があったよ。野辺送りは明後日だってさ」
「楽しみだ」
悪い大人が二人、くくくと笑い合う。
未成年は首を傾げるばかり。
「國武義燕殿」
「んー、なに?」
「これから千尋と、夫人は一体どうなりますか」
事件が解決した今、一番心配なのはそこだ。阿片の密売は大罪。確実に柳川財閥は解体。爵位は剥奪。持てる資産も没収に違いない。更に、被害者とはいえ、千尋には今後罪人の娘という汚名が付いて回るのだ。やり切れない。
「まあ、大方の予想通りにいくだろうね。でも、調べてみた所によると、柳川夫人名義の口座には二千万程預金があるそうだよ。そちらは勿論没収されないから、当面はどうにかなるんじゃない?」
新聞社の方には、千尋さんと夫人にまで類が及ばないよう、圧力を掛けておくよ、とまで國武義燕大佐が続けた所で、千尋が泣いた。
「あっ、ありがとうございますっ…」
「どう致しましてー」
にっこり。朗らかな笑みを浮かべる國武義燕に、神前竜堂は深々と頭を下げた。
「さて、所で、千尋さんは婚約者などお有りですか?もし嫌でなければ僕の嫁になるという手段も、」
「大佐ぁああぁああ!場をわきまえて下さいぃ!」
「チッ…ちょっとした冗談だよ」
その場に居た全員が、はっきりと舌打ちを耳にした。半分は本気だったらしい。確かに、陸軍大佐夫人となれば、食うには困らないだろうが。
「も、もし私が國武様に嫁げば、お母様と竜兄様は助かりますか!?」
「千尋!」
「大佐ぁあ!だから普段より私があれ程っ…あれ程っ…!」
とうとう上官の胸倉を掴んで首を絞め始めた綾橋左近兵長であったが、國武義燕大佐は木偶のように揺さぶられている。
「は」
「え?」
「はじめて…ふられなかった…!」
「義燕は賤民出でね。それが原因でもう何十件もお見合いを断られてるんだ。だから、気にしなくて大丈夫ですよ。お金の事なら、あなたと夫人と神前くんで、先数年は暮らして行けるでしょう」
慌てて壱弐参一二三が千尋を説得して、どうにかその場は収まったが、この瞬間、神前竜堂は國武義燕を敵と認識した。
「…千尋」
「はい」
「いざとなったら、俺が働いて食わしてやる。心配するな」
ぽん。頭に手を置いた兄代わりの男の優しさに、またしても流した少女の涙と笑顔は実に、貴いものであった。