五月十六日。柳川公爵令嬢神隠し事件発生より、半月が経過していた。
【柳川康一被告、逮捕】
五月十一日、柳川公爵邸に軍の捜査が入った。指揮を執ったのは陸軍大佐國武義燕氏と、補佐として同じく陸軍兵長綾橋左近氏である。両名は白金台の柳川家本邸にて阿片取引の証拠品を押収。柳川康一被告を逮捕。赤坂にある柳川財閥所有の事務所にて軟禁されし千尋嬢を保護した。千尋嬢は事件については何も知らず「命の危険があるので父からはここに隠れているよう言い付けられていました」と述べた。更に、調査に依ると被告は娘である千尋嬢の付ける髪飾りの色を合図に阿片の入荷と販売を知らせていた事が明らかになった。親が子を悪事に利用するという卑劣な犯行であるとして、軍上層部は阿片購入者の一斉検挙を決意する旨を発表した。
【平成盗跖・芥子を焼く】
十三日深夜、柳川被告逮捕に呼応するかの如く、階平夜が山中にて栽培されし芥子園に火を点けた。芥子園の小屋からは裏取引にて得たものと思しき大量の紙幣を盗み、市中にばら撒いた。今回、一番多くの紙幣を得たのは傘屋みはしやの跡取り息子(四歳)であり、近く、多額の負債を抱えつつも中央病院で持病の心臓疾患を治療する予定であったという。
【またしても不審死、闇組織内部衝突か】
五月四日、荒川下流より上がった水死体の身元確認の結果、被害者は戸籍がないという事が判明した。死因は毒に依る中毒死。恐らくは非合法取引の衝突による争いではないかと予測されている。今後は海軍、陸軍が共に捜査を進めてゆくという見通しだ…
ばさり。
「ああ…おなかすいた…」
新聞を机の上に放って、壱弐参一二三は溜め息を吐いた。件の大事件から丸二日、然し相も変わらずいろは探偵事務所は閑古鳥である。二日間で来たのは依頼人ではなく、無遠慮な新聞記者のみである。彼らときたら、茶菓子の一つも持ってくれば考えないでもないものを、カメラのフラッシュのみときたのだから、堪らない。
「新聞紙って食べれるかな…?ロールキャベツがあるんだからロール新聞紙もきっといけるよね」
虚ろな目で、涎すら垂らしそうになりながら新聞紙を見詰める壱弐参一二三の明晰な頭脳は極度の空腹から挽き肉などないという事実すらも忘れ去っている。
「壱弐参殿、止めて下さい」
ふと気付くと、室内にはすっかり顔馴染みとなった青年の姿があった。
「ああ、神前くん」
折り目正しく真面目な彼の事だから、壱弐参一二三が気付かなかっただけでノックはしていたのだろう。そう納得すると共に、神前竜堂が手に提げた風呂敷包みを見て、鳶色の瞳が生気を取り戻した。
大きさからして、確実に弁当箱。それも四段か五段はあるに違いない。
「お礼の弁当です。どうぞ召し上がって下さい」
「ありがとう!こちらこそありがとう!本当にありがとう!」
信じられない素早さで重箱を受け取ると、壱弐参一二三は全ての段を机に広げて、すぐさま手を合わせて食べ始めた。
黒い漆塗りの重箱であるが、中に入っているのは海老のフライやら人参のグラッセやら、西洋料理ばかりである。特に鶏肉の燻製したのが絶品で、口に入れた途端に壱弐参一二三は涙が出そうになった。
容姿の幼さ故に欠食児童のようになっている姿には、神前竜堂も何故こんな名探偵が食うや食わずの生活を送っているのかと疑問に思いはしたが、特に追求はしなかった。
「そふひへふぁ、いま…夫人と千尋嬢は?」
「今は、金風楼の管理人を総入れ替えして、新装開店の準備をしていて…事務所のあったあの二階を暮らせるように改築している所です」
「それは良い考えだ。料理人達は事件を一切知らされていないと聞いているしね。風評だけが心配だけれど…」
「いえ、それが…千尋にはあれで中々商才があるようで、悪評だろうと話題に登って人が来るのならそれで良いわ、などと…女学校を辞めて奥様を会長に据えて、社長を名乗っています」
「凄いねぇ。少女社長誕生かぁ…」
嗚呼、女性は逞しい。うんうんと頷きながら、ふと、思い出した。肝心な所を聞いていない。
「所で、神前くんは?矢張り店を手伝うのかい?」
当然のように、そうするものと思っての発言であったが、神前竜堂は唇を真一文字に引き結んだままだ。
「実は…その事で頼みがあるのでお伺いした次第」
突然、神前竜堂は床に正座をし、両手を床に着いた。
「不肖、神前竜堂。学は無いが、腕には少々覚えがあり申す。某をどうか、壱弐参一二三殿の弟子にして頂きたい!」
予想外の回答だった。まさか、探偵助手になりたがる若者が居るとは、考えた事もなかったのである。
「事件を解決したその手腕と度量、感服致した!某もただ己の目的のみならず、苦難に喘ぐ人々を救う、壱弐参殿の如き探偵になりたいと思い、申し出ました…何卒、よろしくお願い致します!」深く頭を下げる神前竜に降ってきたのは、珍味な問いであった。
「神前くん、君、掃除は出来るかい?」
「は?」
「あと、料理と整理整頓と、洗濯と洗い物と…」
「一通りは、それなりに…」
指折り項目を数える壱弐参一二三に、神前竜堂は首を傾げるばかりだ。
「どの位出来る?特に料理」
「筍の煮物位であれば…」
大体、庭師小屋で生活していたのだから、食事に関しても質素倹約を心掛け、自炊していたのだ。また、怠惰を嫌って、季節になれば自ら近くの竹林にて筍を求め、人から糠を貰い、一人で灰汁抜きまで行う。他の山菜や野菜もきちんと保存食にして、慎ましくも贅沢な食卓を楽しんでいたのだ。
「神前竜堂くん、君のような探偵助手を待っていたんだ」
体力、武道の技術共に優れており、確かに学はないやも知れぬが注意深く、誠実。腹芸などは出来ぬ性格だろうが、元々仏頂面で考えが読み難い。老け顔なのもいっそ、依頼人やら犯人やらに嘗められずに済む分、向いているだろうと思う。素質は申し分ない。
そもそも、壱弐参一二三は既に己の年齢が四十も半ばを迎えているのに、弟子のないのを嘆いていたのだ。長く英国、日本両国で培った経験と修行の成果とを継ぐ者がなければ、後の世にきちんとした探偵が一人も居なくなってしまうのではと心配していたのだ。
が、これは理由の半分で、もう半分は壱弐参一二三の偏った能力のせいによる。
推理となれば一流の探偵。帝都大学にて教鞭をも取る学士。天才との呼び声高いが、残念な事に壱弐参一二三もまた、天才の例に漏れず、欠落していた。主に家事能力がだ。否、家事能力と言うとまだ控えめな方であろう。正しくは生活能力がまるでない。飯を炊こうとすれば悉く糊になり、味噌汁を作れば鍋が天井にまで飛び、魚を焼けば炭になる。何年経とうが何回やろうが一向に上達せず、洗濯にしても掃除にしても、やればやる程部屋の中は混沌としてゆく…ある意味では最早、これも一種の才能であった。
本人も自覚していて、食事は毎度外食、掃除も洗濯も業者に任せているのが、独立して事務所を持ってからずっと続いている。難事件を幾つも解決し、それなりの報酬を得ているにも関わらず、一年の半分を飢えて過ごしているのはこれが原因であった。
「探偵に助手が居ないのでは、さまにならないからね。こちらこそ、宜しくお願いするよ。安いしきついけどね…さあ、立って」
「かたじけない…」
すっくと起立した神前竜堂探偵助手は、再び深々と礼をして後、探偵助手らしい質問を投げかけた。
「所で、壱弐参殿、早速の質問で申し訳ないが、今回の事件の真相を教えては頂けまいか」
優秀な助手の質問に満足して、壱弐参一二三は箸を止めた。食事中の彼の手を止められる者は、殆ど居ない。
まず、侯爵が阿片の密売人であった事。社交界に阿片が流れている事。この情報を得た経緯と人脈が、壱弐参一二三だけ謎である。
國武義燕は軍が、階平夜には裏社会がある。針屋静は自ら情報収集をしているような事を漏らしていた。誰より重要な情報を得ていた壱弐参一二三には誰か、強い後ろ盾でもあるのではないか。
「良い質問だね」
「恐縮です」
「畏まらなくてもいいよ。そうだね…落胆させてしまうだろうけど、今回は運が良かっただけなんだ。ここだけの話、僕は華族出身でね。跡取り息子だったのを探偵なぞになってしまったものだから、実家からは勘当されて、仕方無く亡き祖母の苗字を名乗ってみたら、こんな珍妙な名前になってしまった」
生来、華族という人種、社交界という水槽のような枠組みに、生涯自分は溶け込めないと感じていた。幼い頃から神童と持て囃されて、親の期待に応えもしたが、上手くこなせはしても、何一つとして好きにはなれず、煩わしいだけだった。現実味のない芸術文化に浸かって生まれ育ったにも拘わらず、一二三は野生児であった。現実に即した問題、目に見える物事の流動にしか、心を動かされない。
取り敢えずは何処かに逃げ出したかった。外つ国を見てくると言って、十三の年に英国に渡った。警察官と探偵の国、理論と実践、事件の混在する街に、一二三はすぐさま夢中になった。英国一の名探偵の元を訪ねて、断られても断られても毎日毎日根気強く弟子にしてくれるように頼んだ。熱意が認められ、晴れて探偵助手となってからは、世界は一変した。今まで血の通っていないようだった自身の体内で、熱意と義侠心とが心臓の脈動と共に全身へ行き渡った。それは、美しい執念であった。
白人ばかりの街で、偏見の目も不躾な雑言も何のその。突き進んでいる内に、探偵助手であったのが探偵となり、探偵であったものが名探偵となった。二十年は瞬く間に過ぎた。
父親から帰国を促す手紙が来た時には、とうとう、この日が来たかと思った。家督を継ぐのではない、祖国日の本の中心部、帝都を守る探偵となる日が来たと思ったのだ。慣れ親しんだ街を兄弟子に任せ、父親に決別を言い渡し、壱弐参姓を名乗った。これが、いろは探偵事務所の始まりである。
「だから、そういう事情があって、社交界とはまだ、ほんの数人ではあるけれど、交流があるんだ。社交界の変わり者ばかりだけどね。後は、長年培ってきた人脈」
頭を使うだとか、理論的に物を考えるだとかは、訓練すれば誰でも身に付ける事が出来る。しかし、人脈はそうはいかない。事件を通じて出会っても、相手との交流が何時まで続くかは、本人の努力だけでは成り立たないのだ。
「…神前くん、ボクはね、探偵っていうのは縁を使わなければ何も出来ないと思ってる。それをよく覚えていて欲しい」
「縁…」
「君はご両親の縁によって柳川家の人々に出会い、柳川家の人々に出会った事で、ボクと出会った。そして、針屋静と、國武義燕と、階平夜と出会った。これは紛れもない、縁だ。ああ、綾橋左近くんにも会ったね。予想するに、彼とはこれから長い付き合いになるんじゃないかな?」
探偵とはまた、突き進むものだと壱弐参一二三は信じている。名探偵であれば方々から歓迎されるが、名の知れていない探偵は軍や市民に取ってただの厄介者だ。では、厄介者が名探偵となるにはどうするか。答えは決まっている。突き進むしかない。評価は自ずと、後から付いてくる。
綾橋左近兵長は、間接的にではあるが神前竜堂と出会った。これで、彼らはもう互いを無視出来ない。他の面々に関しても、同様だ。そうして厄介者は探偵になってゆく。
「――絶対に、忘れないと誓う」
断言した探偵助手は矢張り、何処まで行っても武士の子だ。却って、それが良いのかも知れないと壱弐参一二三は思う。武士道ならぬ、探偵道だ。
「うん…じゃあ、早速助手としての仕事をお願いしようか。奥の資料室、整理してくれないかな?ちょっと散らかってて」
「あいわかった」
和やかになった空気に不器用な微笑を浮かべて、神前竜堂は資料室に入った。
その散々たる有り様に絶句したのは言う迄もない。
「うん、美味しい」
一方、壱弐参一二三は口に魚のソテーを放り込み、新聞紙に並ぶ見出しを眺めた。きっと、十年後には神前竜堂という名の探偵が帝都を歩き、綾橋左近という上士官が奔走し、もしかしたら、針屋静という心中屋と互角に競い合っているかも知れない。
未来に思いを馳せながら、いろは探偵事務所所長、壱弐参一二三は厳粛に手を合わせた。
「御馳走様でした」








 平成帝都事件録-探偵編- 〈完〉