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ここにこの文章についてのメモとか参考とか注釈とか
一番旧い記憶は一番苦いものとして胸の内に残った。
血族全員が集ったその時、血を分けた遠い兄弟姉妹から浴びせられた嘲笑は、そっくりそのままこの顔に張り付いて馴染んだ。
痛い位歯を食いしばった、あの日の事を忘れない。
空は日本晴れ小春日和で、空気は乾燥している。時折谷から吹き上げる風は湿っているが適度に心地良く、絶好の虫干し日和だ。
「欽十朗、ありがとう!」
紅子が鈴を転がすような声で笑った。ぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる。
「毎日着替えられる何て、夢みたい…」
にっこりと、少女らしい顔で綺麗に笑う。しかし其処には幾らか老成したような雰囲気が垣間見えて、矢張り人ではないのだと実感する。
紅子は、長年に渡り妹として傍で暮らしてきた。
三つある倉の内、一番左側にある北東のが部屋となっていて、中は造りの良い家具で整えられている。見れば解るが、女の部屋だ。鏡台があるし、何より、衣装箪笥が三つもあるのだ。
その衣装箪笥の中はといえば、まるで博物館か美術展でもやっているかのように、ずらりと鍔や目貫が並んでいる。何故衣装箪笥にそのようなものを仕舞っているのかといえば、その鍔がまさしく、この倉の主、紅子の衣装であるからだ。
紅子はその銘を禊紅梅、名を鍔鬼。正体は代々谷を治める椿の家を護る破邪刀で、怪異に通じ妖を制し穢れを祓う力を持った鬼である。
「鍔を替える位なら、俺でも出来るからな」
鞘に収めた鍔鬼自身を手渡すと、その化身たる少女は刀を抱き締め、再度嬉しそうに飛び跳ねた。
今着ている鍔鬼の着物は、ごく薄い黄色の地に金を織り交ぜた山吹色の破扇の柄で、帯は黒、帯留めは秋草に蟋蟀だ。
鍔は着物に、柄巻きは帯に、目貫は帯留めとなって、鍔鬼の姿を彩る。その刀身は肌や髪、身体そのもので、錆び曇れば皮膚は爛れると云う。
「ああ嬉しい。もう数十年も同じ着物で、このまま一生着たきり雀かと思った。流石に柄巻きは時々替えて貰ったけれど、それだけでは、ね…」
「誰かに直接、替えてくれと言えば良かったんじゃないか?」
「欽一朗はよく替えてくれた。欽二朗は恐ろしく不器用で、欽三朗は趣味が悪くて、欽四朗はどじで指を落としそうになって、欽五朗は途中から鍔を集めるのに夢中になって、欽六朗が乱暴なものだから、そこで漸く、諦めた」
「…すまなかった」
自分の先祖達の事とはいえ、聞いていると何やら申し訳ない気がしてくるから不思議なものだ。代々皆、錆びないよう手入れは怠らなかったらしいが、女心には配慮が足りなかったらしい。鍔鬼も苦労をしているようだ。
「いいの。欽十朗は器用で丁寧、趣味も悪くない。おまけに、とても優しいので、わたしは運が良い」
時々、鍔鬼が目を細める様が、会った事もない祖母のように思えてならない。刀だというのに表情が豊かで、感情が深い。
鍔を替える為の道具を桐の箱に収める。開け放したままの倉の入り口から風が吹き込んできた。
そろそろ良いだろう、と扉を閉めようと手を伸ばせば、鍔鬼が叫んだ。
「離れろ欽十朗!」
取っ手に触れかけた指先を脇に引き寄せると同時、何か黒い影が目の前を通り過ぎた。どしゃ、と生々しく濡れた音がして、敷いてあった畳の上に落ちたのが、目を向けるより先に分かった。
よくよく見てみれば、それは一匹の、痩せ細った狐だった。さぞ見事だったろう毛皮は無惨にも汚れていて、黒く染まっている。近寄るとむっとした、実に厭な悪臭がして、思わず眉を潜める。狐の息は荒く、瞳孔は大きく開いていた。
「まさか…丘山か…?」
手を伸ばせば、ぎろりと狐が此方を睨め付けた。間違いない。丘山だ。
姿は違えど、直ぐに判った。目が同じだ。黒いというのに、何処か青みを帯びた、人間ではないものの目。
「穢術(えじゅつ)だ。欽十朗、下がって。触れれば触れただけ穢れが移る」
す、と鍔鬼が刀を抜く。
ああ、そうか、成る程、穢れには禊ぎを。禊紅梅の本領発揮という訳だ。
鍔鬼の刀身は鞘を抜き姿を現す、ただそれだけで魔を祓う。今までに二度程目にしてきた。
「痛みに耐えて毒を吐け」
しかし、今回は勝手が違ったらしい。
欽十朗が声を上げる間もなく、鍔鬼がその刃を狐の尾に突き刺した。すとん、と、まるで穴に棒を通すかのように、鉄が貫通した。
濡れた重みを無視して、毛が逆立つ。断末魔にも似た絶叫が鼓膜を突き破ろうとする。
「其の身悉く清め白刃の下悉く澱みの血流せ。汝が魂捉え繋ぎ、定めと成す」
何やら鍔鬼が早口で言葉を紡ぐが、丘山の絶叫に遮られてしまい、聞き取れない。
「依って、禊紅梅鍔鬼を以て証とする」
刀身が抜かれ、丘山が気を失った。張り詰めていた背骨が弛緩し、畳に倒れ臥す。溢れた黒い血は未だ悪臭を放っていたが、背筋の凍るようなおぞましさは消え去っていた。
「…一体、誰がこんな真似を……」
手近にあった手拭いで刃を清め、鍔鬼が沈痛な面持ちで呟いた。
幸いも、今は未だ春期休暇だ。欽十朗が一日中倉に居ようと、気にする者は居ない。奉公人には部屋に食事を運ぶように頼み、夜半過ぎまで丘山の看病に勤しんだ。
尾の傷は不思議と小さく、直ぐに塞がりそうであったのだが、全身には何か、大きな獣の牙や爪の跡があった。毛皮に隠れてはいたが、治る際には皮膚が引き釣れて痛むだろう。傷口から指を差し込めば、そのまま皮が剥げそうな程だった。
「…鍔鬼、穢術というのは」
「文字通り、穢れた術と読む。最も忌むべき種類の呪いを差す」
呪いとは、世に溢れている。例えば、永き時を経た動植物や器物に宿る何か。生まれた赤子を呼ぶ声。呪いとは、言葉によって何者かを定められ、己が何者であるかを知る事、それ自体なのだと云う。音により眠った何かが揺り起こされ、文字により形が括られる。昔はつばきという音だけであったものが、鍔鬼と椿という双つの形を取ったように。
欽十朗も、あの夜、鈴村が雀群へと回帰し、己が体に傷を刻んだ際に、その事は鍔鬼から聞き及んでいた。妖としても強い力を持つ鍔鬼は、鍔鬼、という文字を欽十朗から消し去る事で、怪異に纏わる記憶を塞いだ。しかし、欽十朗はそれを拒んだ。心あるものは皆、忘れられるのが哀しい。だから、涙を流す程嬉しかったのだと、鍔鬼は語った。
それ位、名は強い力を持つ。目にははっきりと見て取れないそれらの総称を、呪い、と、そう呼ぶのだ。
「呪いは様々にある。中には何者かを害する為に編み出されたものも…けれど、ただ一つ、忌むべき呪いがある。それは、名を奪う事だ」
名を奪う、というのは、一体どういう事なのか。怪異や呪いに馴染みのない欽十朗には分からない。
しかし、鍔鬼の口調からして、丘山の流した黒い血からして、あってはならない事なのだというのは実感していた。
「蟲毒だ」
乾き、掠れた声が唸った。
「奴ら…わざわざ蟲毒の術を狼を使ってやりやがった。畜生、畜生…殺してやる…!」
「丘山…」
「絶対に、幾年掛けても追い詰めて、喉笛を食い千切ってやる…!」
狐の口から、激しい怨嗟の言葉を紡ぐ。正に啼血の、壮絶な苦味を伴った叫びだった。欽十朗は掛ける言葉もなく、絶句する。
「欽十朗、退きなさい」
鞘を捨て、抜き身の刀を手に、鍔鬼が構える。間違い無く本気の構えだ。
「何を…!?」
「このままではどの道、自身の怨みに飲み込まれて蟲毒と同じ穢れの塊になる。今殺してやった方が良い」
迷いのない鍔鬼の顔と、狐とを見比べる。考えるよりも先に、怒鳴るように叫んでいた。
「まだ間に合う!待ってくれ!」
倒れ臥す狐の傍に駆け寄り、覗き込む。狐は細い面を怒りと屈辱に歪め、血を流しながらも、目からは涙を溢れさせていた。
「丘山、丘山わかるか」
本当の名が丘山であるかどうかはわからないが、一番、自分の中に馴染みのある、同輩の名を呼ぶ。
「何故泣くんだ。お前は、自分をそんなにした奴が憎いのか。憎いと、本当にそう思っているのか」
唸るばかりで、狐は答えない。
「違うだろう、丘山。お前の憎しみは本当かも知れないが、憎いだけなら誰も泣いたりはしない。自分の無力が悔しいのか、それとも、悲しいのか。答えろ、丘山」
狐の体が、痛みとは違う理由から、小刻みに震える。益々大きく開いた目から、とめどなく涙が流れて止まらなくなる。
「答えろ!」
倉をも揺らしてしまいそうな位の声を張り上げる。全身全霊を以て叱咤する。裂けたような型を成す狐の口が、はくはくと頼りなく開閉する。
「ぐっ、や、じぃっ…」
回らない口からやっと、ぐずぐずと崩れた吐き出す。これが精一杯、とでも言うように。眉間に皺を寄せ、声を殺して、丘山青という名の狐は、泣き始めた。
痛む体を丸めて泣き続けるその姿に、呆気に取られた鍔鬼が我に還るのは、やっと欽十朗に視線を向けられた後だった。
目覚めるなり、丘山は言った。
「僕を殺そうとしたのは、大陸の親類達だ」
泣き疲れ眠り、起きた時にはもう、丘山はすっかり落ち着いていた。聞き慣れた友人の声が見慣れぬ狐からするというのは不思議な感覚だったが、仕方がない。相手は妖だ。そう考えて欽十朗はどうにか話を聞こうと努めた。
「白面金毛九尾の狐。青丘山が主にして傾国の美女。殷国妲己、耶竭陀国(マガダこく)華陽、周に在っては褒si4(ほうじ)、倭に至りては玉藻…彼女が僕の祖母だと聞いている」
流石に、九尾の狐と聞けば、欽十朗にも些か覚えがあった。
玉藻前といえば、天皇を惑わし世を乱した大妖狐。知らぬ者のない程高名な、最悪の妖婦と称される美女の名だ。妲己と華陽というのも聞いた事がある。
「本当か」
「少なくとも母はそう言っていた。でも、昔、一度だけ血族での魂寄せがあった時には、お前などが丘山青、などとはおこがましいと嘲られた」
魂だけを一所に集め、行った会合は、謀略の坩堝だった。まだちっぽけな、遠い島国の仔狐などは、良い物笑いの種だった。
「…お前らに祓われて、弱った所に付け入られた」
大陸の妖は性残虐にして、血と肉を好む。戦火に微笑み、屍を愛し、退廃に口付ける。人の男に惚れ込んで、子を生むものすら居る国の、妖に何の力があるものか。
そう謗られたから、祖母を目指すと決めた。性の違う、強い力を持った人の子と、千人契れば妖狐となり、練丹を鍛え上げれば天狐となる。天狐になれば、数百数千に渡る鍛錬を経て次第に尾が別れてゆく。尾が九つに別れれば空狐となり、神に等しい力を得る。
歴とした妖狐になるには五百年。それまでに事を為さねば、ただの野狐として生涯を送る事となる。
「適当な人間を騙して、蟲毒の術をやらせたのだろう。僕を、殺す、為に。わざわざ、狼など、使って」
身を起こすと同時、丘山が人の姿を取った。さらさらとしていた筈の髪は血に濡れ、高雅であったろう大陸風の衣服は破れ被れ、土や泥に汚れている。
冷めたような、皮肉るような、そんな風に吐き捨てる。
悔しくて、悲しいのだ。きっと、丘山は。
「…その、蟲毒の狼はどうなったんだ」
「穢術の場合、どちらかが仕留められなければ術は終わらない」
答えたのは鍔鬼だった。真剣な面持ちで、何時もより僅か、ほんの少し早口に喋る。ゆったりとした口調を崩さない鍔鬼が焦りを見せているのだから、余程厄介な術なのだろう。
「この狐が生きているという事は、まだ町に潜んでいるでしょうね。早く始末しなければ、犠牲者が出る」
「どうにか出来ないのか?」
「出来るわ。でも…」
き、と鍔鬼が丘山に、鋭い目を向ける。丘山は泰然として目を合わせる。
「わたしが気に入らないのは、あの狐がまた、懲りずにわたしを、延いては欽十朗をも利用しようとしている所よ」
この地を治める椿の一族と、その血を護る為に造られた破邪刀であれば、土地を脅かす魔で祓えぬものはない。梅花皮という土地に於いては、この双つは何より強い力を持つ。
「わたしがその気になれば、お前を殺してこの術を終わらせる事も出来る。忘れるな」
丘山の行動は、気位の高い鍔鬼の機嫌を損ねるには充分だったようだ。
しかしそれすらも承知の上なのだろう。丘山は返事も言い訳もせず、目を反らさない。
唇を引き結んだまま二階へと上がって行った鍔鬼の後ろ姿を見て、欽十朗も倉を出た。
閉まる扉の隙間から見える丘山は、まるで石のように、微動だにせずにいた。
翌日、倉を訪れるなり、鍔鬼が言った。
「欽十朗、悪いのだけれど、隣町の神社の本殿から、奉納されている刀を借りてきて」
余りの事に驚いていると、風呂敷によって簀巻きにされた丘山を一瞥し、続ける。
「あの、狐が連れてきたのは、とても厄介なものでね。前のように鍔だけでは心許ないわ。それなりに力のある刀が必要なの。彼処の神社に居るのはわたしの弟だから、きっと力を貸してくれる筈」
「借りてと言っても、どうやって事情を説明すれば…」
まさか、友人の狐を助ける為に狼の化物と対決せねばならぬ、などとは言える筈もない。第一、欽十朗にはそこまでの話術など備わっていない。
「その為に、この語りを連れて行くのよ。丁度怪我もしているし、椿の名前もある。どんなに盆暗の獣でも、どうにか言い訳は立つでしょう」
成る程、そういう考えか。
不謹慎にも欽十朗は感心したが、騙すというのには矢張り多少の抵抗がある。が、事態を鑑みるに、手段を選んでいる暇はないようだ。
「昼間の内には、蟲毒も獲物に手出しは出来ない。今の内に準備をしなくてはならないの」
門前まで鍔鬼に送り出され、欽十朗と丘山は連れ立って隣町へと続く山道を歩いた。
傷の痛みからか丘山は道中、終始無言ではあったが、好きにさせておいた。この蟲毒の件が片付くまでは妙な手出しもしないだろうし、何より、自らの諸行のせいとはいえ、何処に行こうと眉を寄せられてしまう狐を哀れに思ってもいたからだ。
勿論、聡い丘山が欽十朗の考えを読めない筈もないだろうから、恐らくこれも無言の原因に違いない。昨夜から分かったが、鍔鬼に負けず劣らず、この元友人も相当に気位が高い。
「ああ、良かった!これで魔物も退散するでしょう!ありがとうございます。ありがとうございます。このご恩は決して忘れません。後ほど家人を寄越して御礼をさせて頂きます!」
目的の神社に着いてからは、凄まじかった。
正に口八丁手八丁、よくぞこうまで知恵と口が回るものだと、欽十朗も感心しながら観察していた。
何しろ、相方の欽十朗が適当に相槌を打つだけで、とんとん拍子に話が進んでゆくのだ。成る程、話と内容は基より、細かい表情やら身振りやらも重要らしい。整った顔貌に化けるのも、人を騙すのに有用だからか。もしかしたら、道中黙りを決め込んでいたのも、この文句を考えていた故かも知れぬ。そうか、虚偽にも弛まぬ努力が要るのか。
そう考えてみれば、丘山と神主の掛け合いは面白かった。
あっという間に神刀を手に、来た道を戻る事と相成って、欽十朗は何やら、自分達がまた以前と同じ、奇妙な友人関係に戻ったような気さえした。
「あら、早かったわね」
「丘山が居たからな」
「違うでしょ。欽十朗と、椿の名前があったからよ。あの狐一匹じゃ、絶対に持ち出せやしないわ」
存外早い帰宅に鍔鬼は驚いた様子だったが、これが自分の嫌いな狐の手柄だとは、意地でも認めたくないらしい。ぷいとそっぽを向く鍔鬼に対し、丘山はといえば少し嫌味と皮肉を混ぜた顔で、得意そうに微笑している。
改めて、本性を知った上で観察すると、何を考えているのか、思ったよりも解り易い。確かに人を騙す妖なのだろうが、完全な悪とは言えないのではないか。
「欽十朗、日が暮れてからが勝負よ」
気を取り直したらしい鍔鬼が言う。
「蟲毒は強い術。完全に命を絶ち切ってやらねば、終わらない。躊躇わないで、絶対に。名を無くしてしまったものは、どうやっても元に戻してやれない」
「名を無くすっていうのは、どういう事なんだ?」
手渡された鍔を、切羽と共に神刀へと据える。鮫皮の柄を目釘で留め、目貫を選ぶ。鍔の図案に見合うよう、笹に流水のものを。
「蟲毒は…狭い、密閉された場所に、獣や毒虫を集めて殺し合わせる。強いものだけが他を食らって生き残る。長い時間、音しかない暗闇で、ずっと苦痛の声を聞く。すると、やがて獣や虫は、どれが自分の声なのかが判らなくなる。己の姿を忘れる。己を呼ぶ仲間の声も、忘れる。飢えた末に殺したものの悲鳴も肉と共に食らっていって…遂には己を忘れてしまう」
一瞬、大きく鋭い瞳が凪いで、静かな悲しみを映す。
名を、呼ばれたいのか。物も、者も。あらゆるものは。
「品のない術だよ。おまけに、やったのは僕の親類だ。狐が狐を殺す為に、人の穢術に手を出した。最早誇りも何もない。世は黄昏時だ。人の真似事をしなくては、碌々生きて行けもしない」
何に対し高揚しているのか、丘山が饒舌になる。嘲っているのか、嘆いているのか。壊れたようにけたけたと、笑い出す。
白い柄巻を巻き、無垢な刀身は潤塗(うるみぬり)の鞘に収めると、空が朱に染まり始めていた。
鍔鬼が耳元で、母親のような音色で囁く。
「欽十朗、お前ならやってやれる。お前は強く、わたしのような妖に対して、とても優しい。己が正しくもないと知っている。だから、出来る筈だ」
赤い色は魔を退ける。大陸では吉事を表し、運を招く。祭事の色だ。きちんと、弔ってやらねばならない。
「…ああ」
もう直ぐ、この刃に掛かって、一匹の獣が、死ぬのだ。
谷を夜が覆うのは早い。
日が落ちれば、外を歩き回る人影は極端に少なくなる。しかしそれなりの規模を誇る町では、一昔前のようにはいかない。夜警の警察官が時折巡回していたり、呑み屋から帰路に着く者が居たりと、夜は最早無人ではない。
しかし、この夜は違った。
まるで滑るような空気が肌を撫で、纏わりついた。どこからともなく生臭い風が吹き、不快であった。近年になって増え始めた街灯の光も見えず、ただ細い月明かりがあるばかりだ。
欽十朗は、怪異の起きる時というのが分かるようになってきた。人の身には理解が難しいだろうが、恐らくはある程度の規則に則って、起きるのだろう。怪異の起きる時は決まって不気味な程人気がなくなり、その場で必要なものだけが残される。
怪しげな呪い師などは大概、場が云々と語り出すが、成る程、世間の呪い師がどれだけ信用出来るかは別として、場、とはこのようなものを差すのかも知れない。
「…丘山?」
ふと、町を歩く内に後ろを歩いていた丘山が居ないのに気が付いた。まさか既に仕留められてしまったか、と思った時、近くの生け垣が揺れた。
「ここだ」
「何だ、脅かすな」
「本来の姿の方が、鼻が効くのでね」
家を出た時は人に化けていたが、何時の間にやら、狐に戻っていたらしい。背中に幾枚か木の葉を付けている。
「近いぞ」
血を腐らせ煮詰めたような臭いが、歩を進める度に濃くなってゆく。件の、どす黒い血の臭いだ。小道から町一番の大通りに近付くにつれて、気配もしてくる。
理性や意識とは関係なく、生理的な嫌悪、嘔吐感すら巻き起こすその気配は、忌むべきもの、以外に形容すべき言葉が、果たしてこの世にあるだろうか。
「来た」
ゆったりとした丘山の声に、神経質な恐怖が混じる。濃厚な帳の中からのそりと現れたのは、件の黒く濁った体液に塗れた、一匹の巨大な狼だった。黒に近い灰色の瞳と、自然の中にあっては威風堂々と風に靡いていただろう誇り高い毛皮が濡れ、土へと汚辱が滴っている。
狼であったものが、唸る。黄色く変じた牙と、生きながら朽ち始めた歯肉が覗く。赤い鞘から、刀を抜く。鋭い程に無垢な刀身。
欽十朗は、自分が生き物を殺す際に、背徳に満ちた高揚か、己が殺意に対する恐怖に身が竦むのではと考えていた。しかし、実際、何かを殺すという時になり、刃を抜くと、諸々、ありとあらゆる感情は即座に消えて失せた。心は静かだ。余計な気持ちは、何もない。淀みも、動揺もない。濾過されたかのように。
「行く」
唐突に、理解する。
「椿欽十朗」
名乗れ。名を、名乗らねば。礼儀云々ではなく、もっと根本的な、他でもない、自らの魂に賭けて。
「穢術の古狼、お前を斬る」
思考よりも、言葉よりも先に、存在それ自体が結論に到達する。
血の混じる涎を散らしながら、崩れた牙の列が向かう。人では決して真似出来ない、見事な跳躍。どんな険しい岩々の聳える山野までも高く、跳べるだろう。
かつ、と鈍った歯と刀身が交錯する僅かな音だけが耳に届いた。一瞬の間に、体の一部と成った柄から総て、感覚が伝わる。どの皮と骨と肉が、どの刃面に触れているのか。
切れ。
断ち斬れ。ある筈のないものを、あってはならないものを。物事には何事にも、終わるべき時が、あるのだ。
やっと、わかった。刀とは、破邪刀とは斯くあるべきなのだ。それこそが清めであり、禊ぎだ。純化へと向かう殺意と、それを乗せる磨き抜かれた鉄の塊。
それが総て。
一歩、刀を振り、血を振り払い、下がる。
未だ痙攣を止めない狼が、朦朧とした、穏やかな瞳をぐるりと回していた。臭いと悪寒が空気に溶けて消えてゆく。
「…名を返そう」
お前が、祖国の山野に還れるように。お前を縛った、誇りを奪い、汚辱に沈めた者達の魂の端をせめて、削れるように。
「ハイブチ」
ふと浮かんだ、笑ってしまう程情緒のない名を、口走る。
「灰斑。異国の名で済まないが、どうか受けてくれ」
一度、灰色の瞳は目を細め、承諾したかのように、ゆっくりと瞼を閉じた。
欽十朗がこちらを向き、手にした刀の切っ先を鞘に収めるまで、不覚にもその無骨な一連の動作に目を奪われた。
優美さの欠片もないだろう、その身のこなしが、まるで、虎と対峙したかのような錯覚を起こしたのは何故なのか。あの忌々しい破邪刀から授かった虎の鍔、それだけが原因であると断ずるには余りにも強く、生気に満ち満ちた、姿。苛立ちを感じずにはいられない、その。
「丘山」
呼ぶな。止めろ。名を、もう、呼ぶな。おれの名を。止めろ。止めろ。止めろ。
「丘山青というのは、良い名だな」
お前如きが、此の、名を、喚ぶな。
食い縛り、舌に溢れる血の味を、忘れない。忘れない。決して。
それは人間如きに認められた事に対する、屈辱であったのか、それとも、泣き叫んでしまいたいような数百年来の歓喜であったのか。わからない。わからない。わからない。只、あの夜は、煌めく白刃と、愚かしい人間と、噛み締めた牙の痛みを、軋む奥歯の耳障りなのを、忘れない。
黒い血に汚れた蒼白い頬に気付いたのは、醜く流れる涙の一筋があってからで、馬鹿な刀使いは呑気な声で今度は長髪に化けたのかなどとのたまっていたが、詳しくは覚えていない。覚えては、いられなかった。
二つの記憶は、一番苦いものとして胸の内に残った。
痛い位歯を食いしばった、あの日の事を忘れない。