第肆話. 瓶鏡

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高校の同輩であった椿欽十朗という男は、どことなく奇妙な所のある男だった。








何が変わっているという訳ではないが、何故だか何時も自然と其処に居て、何かの役に立っている、という印象がある。只其処に居るだけで何一つ仕事をしているという訳でなくとも、何とはなしに、事態が好転したように思えてしまう。
これは俺だけでなく、周囲の者、梅花皮町の住人全員に言える現象のようで、どんなにややこしく、且つ逼迫した事態に陥っていようと、欽十朗が来ればもう、すっかり問題が解決したような気になってしまう。
田舎の風土であるからして仕方がないと思ってしまえば全く、それまでなのであろうが、然し、それでも名状し難い何かの力が作用しているのではと疑ってしまう。
兎にも角にも、椿欽十朗とは、両方の意味で梅花皮町に取っては特別な存在だった。故に、町で問題の起きる場所に彼が居ようと、何の不思議も感じない。というより、其処にあって然るべき人間であるという気さえする。
なので、近頃話題のその場所に佇む一人の温厚な大男の姿を認めた時、俺は密かに胸を撫で下ろしたものだ。ああ、これでやっと、安心してこの道を使えるぞ、と。
「葛丸か?」
一拍遅れて、欽十朗が俺に気付いた。流石に高等学校でつるんでいただけとはいえ、同輩の名は覚えていたらしい。こちらも引いていた荷車を止め、手を振ってみる。
「椿、こんな所で何してるんだ」
「いや、お前こそ、何をしてるんだ」
がさがさと草むらの間、大きな古柳の下から出て来た所で、いかがわしさの欠片もないのが、この男の凄い所だ。確かに、こんな夜更けに荷車を引いているこちらに分が悪いのもあるが、全く、適わない。
「ああ、俺は商売の帰りで…山下の婆さんに長い事捕まってこの時間だ」
「そうか、お前の家、豆腐屋だったな。跡、継いだのか」
「いや、まだ見習いだけどな。親父にどやされてばっかりだ。それより、お前、一応うちのお得意様なんだから、分かっといてくれよ」
「悪いな。大学で余り家に居ないからな」
「ん?ああ、寮か下宿でも借りてるのか」
「否、家の山を越えれば直ぐが大学だ。自宅から通ってる」
欽十朗は数少ない大学へと進学した秀才で、町の自慢、町の誇りだ。普通なら同輩が一人、大学に進学するとなれば少しは嫉妬が頭を擡げるのだろうが、椿ならばと、納得して、堂々とした気持ちで送り出してやれた。この信頼が何処から来ているのか解らないが、不快ではなかった。
暫くそうして会話を続けた後、欽十朗の方から本題を切り出してきた。
「そういえば、近頃この辺りで、喋る壷があるという話を聞いたんだが…」
「そりゃあ、予言の瓶の話だろう。ほら、あそこの、枝垂れ梅の下にある」
待っていました、とばかりに喋り出してしまい、会話や説明の類が苦手な自分を苦々しく想うが、相手は気にした様子もなく、先を促す。
「話に依ると、真夜中、あそこを通ると、何やら嗄れた、男の声がするらしい。ここからが不気味なんだが、どうにも、あの瓶自体が喋っているらしい。だが、どうしてだか、皆それをその時は恐ろしいと思わずに、近寄って話の内容を確かめてしまう。すると、その瓶は近寄った人間に不吉な予言をするんだそうだ。お前は明日、左の臑を折る、って具合に…そしてその通りになる」
「そうか、奇妙な話だな」
さして怖くもない、といった態度でさらりと頷いてみせる。全くこいつは、と笑いながら、ふと、以前はなかった顔の傷に気付く。
「所で、その顔の疵はどうしたんだ。随分と深いようだけど…」
「ああ、先日、刀の手入れをしていたら、失敗してな。この通りだ」
成る程、椿であれば、家の蔵に刀が二本三本あったとしても、不思議ではない。梅花皮なら誰もが知っているが、椿の家の男児は洩れなく、生涯を通じて剣道を倣うのが慣わしだ。刀の手入れもその一環か。
疵の位置や痕からして、まるで普通ではないが、その眼差しからはささくれ立ったものは見受けられず、到底、やくざ者に見えはしない。逆に男振りを上げている程で、誉れある戦歴の証にすら見える。
「はは、長の家も大変だな。じゃあ、明日も早いし、ここいらで失礼するか。それじゃ若様、どうぞ、これからも葛丸豆腐店をご贔屓に」
「済まないな、引き留めて」
「いい、いい。こんな時間なら、差して変わらないしな」
こうして、俺、葛丸弥彦(くずまるやひこ)が椿欽十朗と久方振りに合ったのが、十日前。時間が時間、夜遅くであったのも原因だろうが、何故だか父母との雑談でも、椿に合ったと言うのをすっかり忘れていた。
はたと思い出したのが、その十日後、たった今時分である。




今日は店の定休日で、俺は山一つ挟んで隣の町に済む、悪友達と夜遅くまで、酒を舐めつつ麻雀と決め込んでいた。帰る頃には夜半過ぎ、足は酔いどれ千鳥足といった具合で、まだ肌寒い春の夜を、一人赤ら顔で歩いていった。
細い林間の道を越え、やっと梅花皮に着いたと思い、五分十分歩いた時だった。進行方向に、二人の男が居るのに気が付いた。その内の一人こそ、件の椿欽十朗という訳で、見た途端、あっと先日の事を思い起こした。そうだ、この先は例の、喋る瓶がある場所じゃあないか、と。
よくよく見てみると、欽十朗の纏う、闇に溶けるような学生服、背に負うた竹刀袋は良いとして、連れの格好が珍妙奇天烈に過ぎる。洋装とも支那服とも付かない格好をしていて、趣味は悪くないのだが、こんな田舎町では勢い、垢抜け過ぎていて場違いな感が拭えない。きっと小柄ではないのだろうが痩せていてひょろ長く、大柄な欽十朗と並ぶと、どうしても小さく見える。男か女かよく判らない、女形役者のような顔をしていて、髪が短く、端正な顔に含みのあるような笑みを貼り付けていた。何処からどう見ても、怪しい組み合わせだ。
二人は欽十朗を先頭に前後に並んで歩いていて、何やら話しながら、喋る瓶のある枝垂れ梅の方へと歩いてゆく。好奇心を煽られて、俺も二人の動向を気付かれないよう窺う事にした。
どうしてわざわざ間者の真似事をしたのかは自分でも分からないが、何となくそうしてしまったのだ。酔っていたのもあるだろう。
「その予言が本当なら、逆に準備が出来て助かるんじゃないのか」
と、欽十朗が言うと、連れの方が勿体ぶった、教師のような口調で答えた。
「予言というのは、そんなに簡単に出来るものじゃない。増して、只の瓶ではね。運命やら、星の流れやらはとても強靭で、何者もそれに逆らえるようには出来ていない。出来るとすれば神仙だけだが、それすらもちょっとした小細工だけなのだよ。大抵の預言者などというものは、相手の運を少しばかり奪えるだけの三流さ。尤も、語りの数なら、掃いて捨てる程居るけれどね」
「他人の運を奪えるのか」
「そうさ。大半のものは気付かずに生涯を終えるが、時々、そういったものが居る。これは生まれつきで、強まったり弱まったりはしない。周囲の影響は受けるが、その力量に変化はない。だからこそ、長く生きて己の素質を知ったものが、暇に明かして使い始める。だからきっと、遊びのようなものだろう」
男の解説に対し適当に相槌を打ちながら、欽十朗が次の質問へと移ろうとする。
その時だった。後を歩く男の頭がぐにゃりと曲がり、鼻の長い、鋭い牙の揃った狐へと変じた。それに伴って、長い指も何時の間にやら、爪の煌めく獣のものになっている。欽十朗は気付いているのかいないのか、振り向こうともせず淡々と歩き淡々と喋り続けている。
「じゃあ、予言をすると言っても、そう大した事は出来ないのか」
「ああ、そうさ」
狐がにたり、笑うや否や、その前足を振りかぶり、欽十朗の頭を砕こうとする。
危ない、と叫びそうになったが、其れよりも先に、かつり、何かが学生服の懐から落ちて、欽十朗がひょいと拾った。屈んだ為に狐の爪は空を裂き、振り返られて、即座に人の形へと戻る。
「よし。傷は付いていないな」
「…それは何だい?」
「出掛けに持たされた。南天の鍔だ。難を転ずるように、だそうだ」
獲物を仕留め損なった狐の作り笑顔とその心情を察して、笑い出しそうになるがぐっと堪える。当事者である欽十朗がまるで気付いた様子を見せないので、その対比も面白い。流石、椿の若様だ。そうとしか言えない。
まるで気狂いの見る夢のような情景だが、酒の効果も手伝って、すっかり恐怖と毒気の抜かれた俺は、さてこの二人がこれからどうするものかと、傍観を決め込む事にした。





からころと下駄を鳴らしながら、欽十朗が話を戻す。格好からして、稽古の帰りがてら、散歩をしているといった具合だ。今から噂の、不吉な瓶を身に行こうという風には見えない。
「それで、運を奪うというのは、具体的にはどういう事なんだ?」
「運を奪う、というのは、一つの場合に過ぎない。他人と接する事で相手の運を吸い取って自分のものにする奴や、単に相手の運を損なわせる奴が居る。体質のようなものとでも言えば解り易いかな。夜にその効果が高まる奴も居れば、古木の下で効果が高まる奴も居る。その者それぞれなのだよ」
「ああ、それでか。周囲の影響を受けるというのは」
「そういう事だ」
気を取り直したらしい狐が、またしても人の形を崩し、本性を露わにする。先程よりも変化が速い。
例の枝垂れ梅と瓶はもう目前、欽十朗は自然、そちらに目を向けている。長く剣道を嗜んできた欽十朗なら殺気に気付いても良さそうなものだが、相変わらず振り向く気配はない。
しかしその間にも狐は首を傾げるようにして曲げると、大きく鋏のように開いたその口を、首もとへと寄せた。首を食い千切る腹積もりなのだろう。そろりそろりと距離を詰める。
「がっ…!」
だが、今度も上手くはいかなかった。首を取る事にばかり集中していた狐が、往来に埋まった石に蹴躓き、前につんのめるようにして派手に転んだのだ。勿論、欽十朗には傷一つない。
「大丈夫か」
「ああ、ちょっとね…石があったのに気が付かなかったんだ」
にっこりと、人の形に戻った狐が怜悧な貌でしゃあしゃあと言ってのける。咄嗟に作ったからであろう、些か過剰な笑みに滑稽さを感じないではいられない。
「所で、渡されたのは南天の鍔だけかい?」
「いや、南天だけでは心許ないからと、菊の図も渡されたな。魔を退けるように、だそうだ」
「その二つだけかい?」
「二つだけだ」
密かに微笑んだ狐の表情に、いよいよ欽十朗も一巻の終わりかと思われたが、それよりも先に、本来の問題であろう瓶の件が待っていた。二人はほぼ並ぶようにして、古い瓶を覗き込む。
「おい、おい、瓶、聞こえているか?」
「いっそ面倒だから、叩き割ってしまってはどうかな?」
「それもそうだな」
「待って下され…」
いっそ清々しい位迷いなく物騒な話を進める欽十朗と狐に恐れを成してか、瓶の中から老爺のような声が響いた。深みのあるくぐもったそれはまさしく瓶の化け物といった具合で、俺は不思議と納得してしまった。
「何だ、返事が出来るんじゃないか。瓶風情が。分かったらちゃっちゃっと返事をするんだな」
「ひぃいぃぃ…」
「おい丘山、余り脅してやるな。瓶、町で事故に遭う人が居るのは、お前の予言が原因なのか?」
狐は丘山、という名前らしい。えらく人間臭い名前だが、人の間に紛れるにはそれ位でなくてはならないのかも知れない。
「はい…全て正直に申し上げます。儂は見ての通り、何の変哲もない瓶の九十九神に御座います。ただ、病を発した職人が死の間際に作り上げた縁でか、傍にあるだけで人の運を削ります。自らが削り取る運が何を起こすか分かるのです。それが故に、瓶を覗く人々に、喋るを幸い、それを伝えておったのです」
「なら、お前に人を害する気持ちはないのだな」
かりかりと意地悪く瓶の縁を爪で引っ掻いている丘山の手を引き剥がし、欽十朗がぐいと身を乗り出して瓶を覗き込んだ。
「はい…恥ずかしながら儂は死ぬのが恐ろしいですじゃ。然れども、人を害する事なく本来の瓶として使命を全う出来たら、どんなにか、と…」
「わかった。お前を俺の家の倉に運ぼう。そら、中の水を捨てるぞ。丘山、手伝ってくれ」
「なんだ、爺の声で喋る君が見られて面白かったのに。もう水を捨てるのか」
そうか、思い出した。どこぞのご隠居があの瓶の話を聞いて、冗談混じりに名を付けたのだったか。瓶鏡、と。
先程欽十朗に話すのを忘れていた。余りにも奇天烈な内容だったのでうっかりしていたのだ。あの瓶は喋ると同時、瓶を覗き込んだ者の姿を水面に借りて喋るのだと。
「じゃあ、俺が此を背負うから、丘山、お前は後ろから底を支えておいてくれ」
「ああ、良いとも」
また、丘山がにたりと笑った。今度は人の顔のまま、しかし釣り上がった口は正に、狡猾な狐そのものだった。二度の失敗を活かしてか、人の姿のまま右手だけで瓶の底を支え、そろりそろりと忍び寄る。
「それにしても、あっさりとした解決じゃないか。瓶、お前まだ何か企んでいるんじゃないのかい?」
「いいえ、いいえ。よもやそんな事は御座いません。ただ…」
「ただ?」
欽十朗が瓶に先を促す。余りに大きな瓶なので、大柄な背中にも据わりが悪いらしく、しきりに体を捻っている。狐の鋭く伸びた爪は、もう首の直ぐ傍だ。
「貴方様は、儂如きと関わりを持とうと何ら支障のない程強靭な、稀有な運の持ち主であらせられると、お見受けしたものですから…」
爪の先が僅かに首筋へと触れるか否かという時点で、ぎゃ!と獣の悲鳴が響いたかと思うと、地面に一匹の、痩せた狐がひっくり返っていた。その狐を踏み付けるようにして、薄くぼんやりと、朧な月のように光る狼が牙を向いている。狐は天敵に出会って死に物狂いで藻掻いているが、全て徒労に終わっているようで、狼はびくともしない。
すとん、と何かそれなりの重さを有したものが土を柔らに叩く音がして、狼の姿は泡沫のように消え去った。欽十朗が瓶を置き、服の中から滑り落ちたであろうそれを拾い上げる。
「雨中独狼の図か…おい、丘山、大丈夫か?」
「畜生!図りやがったな!」
「そんな言い方はないだろう。俺だって鍔鬼から聞いていなかったんだ…それに、成り行きとはいえ、お前は俺の眷属だから、俺を害せばお前に呪詛が返るだろう…おい、立てるか?」
「いい、いいから其奴をおれに近付けるんじゃない!」
刀の鍔らしきものを持ったまま手を貸そうとする欽十朗から跳びすさるようにして、狐が叫ぶ。
古来より狐の天敵は狼か犬と決まっている。今はもう減りつつあるが、古い家などでは煤けた、狐除けの呪い札が貼ってある。狼の文字か絵姿か、山に囲まれた村であれば何処でも目にする機会があるだろう。それにしても、まさか本当に効果があったとは。
一部始終を見終えた俺は、早足でその場を離れた。疾うに酔いなど醒めていて、走っている途中で堪え切れなくなり、呵々大笑とばかりに腹を抱えた。
そうか、そうか。道理で適わない訳だ。獰猛で狡賢い狐をそれと知りつつ供にして、小指一つ動かさずにあしらうのだから。その上、暗殺を失敗した化け物に手を貸すおまけまで付いている。流石は、椿の若様だ。一筋縄ではいきやしない。








数日が経って、皆町の住人が例の瓶を忘れ始めた頃に、店番をしていたら偶々欽十朗がやって来た。
丁度隣街のお坊様と今度の法事の事を相談していたのだが、失礼ながら会話を中断して商売に戻らせて頂く事にした。この進歩的な型の眼鏡を掛けたお坊様も檀家回りのついでに立ち寄ったという話だから、長引くようでなければ支障はないだろう。
「やあ、椿の若様、珍しいな」
「葛丸、余りからかうなよ」
「ははっ、悪い悪い。それで、何か用ですか?お客さん」
「油揚げを五枚ばかり…悪いな。こんな時に…」
お坊様の姿をちらと見て、欽十朗がお馴染みの鉄面皮に申し訳なさそうな色を浮かべるが、お坊様の方にもこれといって気にした様子は見られない。
「いや、いい。いい。お得意様だしな。代金は今度の配達に上乗せで良いか?」
「ああ、そうしてくれ」
折り目正しく会釈をする欽十朗に、袋に詰めた油揚げを渡して、俺はまいどあり、と冗談混じりに笑みを浮かべた。








梅花皮町には、寺がない。
寺どころか、神社や祠の類など、そういった神仏に纏わる一切合切が、何一つとしてないのだ。普通なら廃寺の一つもあって良さそうなものだが、和尚によるとこの場所に寺や神社が建っていた記録は一切無いと云う。
故に、村人は冠婚葬祭の全てを、隣町の寺や神社に頼る事になる。これは異常だ。通常ならどの町どの村にも其処を取り仕切る各々の寺や神社があるもので、余所の村に頼ったりはしない。だが、この梅花皮だけが異例なのだ。
まず人死にが出ると、住民はこの町を纏める椿の家に便宜を図る。そして椿家の指導の元棺や仏壇、死に装束などが用意され、場が全て整った所で経を上げる為、寺の者が呼ばれる。我々坊主が到着する頃には既に墓穴や墓石まで用意されているので、墓地まで行ってまた其処で経を上げ、葬儀は終了となる。以後の法事などは遺族が個別に寺と相談するが、葬儀だけはまず椿家を通すのが習わしとなっている。
婚礼に関してはこれは神社の分野なので良くは知らないが、大体は同じで、ほぼ全ての準備を椿家が整えてから神主が呼ばれるらしい。
場合によっては、それらの式典が椿家の敷地内で行われるのも珍しくはない。
住民はこの制度に不満も疑問も持っていないようだが、どうしても違和感が残る。何せ、件の椿家は、本来であれば寺や神社が建って然るべき場所、町全体を見下ろせる山の上に腰を据えているのだから。
「やぁ、椿の若様」
檀家の一つである葛丸豆腐店の若旦那が、馴染みの人懐っこい愛嬌のある笑顔で視線を外した先には、一人の大柄な、目鼻立ちの整った青年の姿があった。白い長袖のシャツに、学生服だろうか、黒いズボンを穿いて、足には黒い鼻緒の下駄を下げている。
これといって、大柄な以外には特徴のある若者ではない。しかし一種独特の泰然自若とした空気を持っていて、かといって無意味に家の威光を傘に着て威張った風情もない。
彼が豆腐店のひさしの下に頭を潜らせて、やっとその顔に刃物の傷があると分かったけれども、決して先程までの印象を変えるものではなかった。
豆腐店の若旦那とはわりかし親しい間柄なのか、一言二言冗談混じりに会話を済ませると、若旦那と私、それぞれに会釈をして帰っていった。頭を下げるその仕草も随分自然で心地良いもので、ははあと感心してしまったものだが、去って行く彼の後ろ姿を何気なく見て、ぎょっとした。
黒いのだ。右手の先が。
どうして今まで気付かなかったのだろう。まるで炭でも漁ったように、右手の先が真っ黒だ。強い火で燻されでもしたかのように黒い。
豆腐店の若旦那が指摘をしなかった理由を考えずとも、一目見れば明らかだ。あれは、人とは何か別の、異形のものに纏わる不吉なものだ。まさか本人は気付いていないのか。そう思って辺りを見渡すが、害を成していると思しき魑魅魍魎の類は見当たらない。大抵、何処の町でも村でも多少の妖は蔓延っているものだが、不自然な位通りは綺麗で、がらんとしている。
そういえば、今まで一度も梅花皮では妖を見た事がないのだ、と気付いた途端ゾッとして、私はただただ、黒い手を持つ彼の後ろ姿が遠ざかるのを、黙って見ているより他はなかった。