第伍話. 古書喰蛇

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この古書店を継いだのは、祖父が八十、私が七つの時だった。








この古書店の書架には影の蛇が棲んでいると聞いたのは、確か意識も朧な幼い時分であったように思う。
祖父は祖母をまだ若い頃に亡くしてから、一人でこの古書店を切り盛りしていた。私の父母は赤子の頃に揃って労咳で世を去ったので、祖父は私を育てる合間に、店を切り盛りしていた事となる。元文学青年にしては、屈強な体躯の人だったのだと、今になって思う。そろそろ祖父と同じ年に近付いた私では、ああはいかない。ただゆるゆると衰える一方だ。年々書棚の整理や虫干しが億劫になってならない。矢張り、文化的趣味人にも体力と、可能ならば立派な体躯が必要なのだと思い至る。
「すみません、これは幾らですか?」
そう、この若者のように、学問に生きる者であっても、強い体が必要なのだ。
「ああ…ええと、幾らだったかな?」
少しばかり歪んでしまった老眼鏡を着けると、こちらにやって来る青年の顔がくっきりと見えた。
丘の上の武家屋敷は十代目の、椿欽十朗様だ。彼も剣道に向いた優秀な体躯を備えているが、この町唯一の大学生、それも文学部を専攻しているという変わり種だ。
「いや、もう…そうだな、あなたになら、どれでも好きなものをお譲りしましょう」
青年が疑問から、僅かに息を詰めたのが伝わってきた。
「この店も、もう今月で閉める事にしましたので」
私の産まれた八筬(やおさ)家は、代々早死にの一族である。
大抵の者が二十代か三十代の頃に亡くなり、中々四十までは生きられない。
時折、祖父や私、八筬京助(きょうすけ)のように長く生きる者もあるが、本当に稀であるのは間違いがない。証拠に、今から十年前に娘と婿は亡くなり、ただ一人残った孫娘も、二年前に他界した。
最早この降り積もる本の山を継ぐ者は居ない。そろそろ潮時だろう。八筬の血も、この八筬古書店も。
「それは…残念ですね」
礼儀を弁えた欽十朗青年は、この古書店の系譜を頭の中で手繰り寄せ、敢えて曖昧な、差し障りのない言葉を慎重に選んだ。生粋の日本男児らしく無表情な内にも、気を遣っているのが分かる。
「どうせ処分されるなら、読みたい人に持って行って貰う方が良いですよ。どうぞ、御遠慮なく…」
「では、これを頂きます」
と、たった一冊、それも殆ど価値のない中古本を軽く掲げた。
「あぁ、そうだ、ここは暫く整理がつくまでこのままにしておくつもりなので、気が向けば何時でもいらして下さい」
この店の裏口の鍵を机の上に出せば、彼は僅かに動揺の色を見せた。
「町唯一の大学生でいらっしゃいますからね。老いぼれなりにも梅花皮の未来に貢献しようかと思ったのですよ」
「では…一応、預かっておきます」
彼は鍵を手にすると、これもまた丁寧な礼をして去っていった。
咲き始めたばかりの枝垂れ桜が、未だ未練がましく枝へとしがみ付く、茶色く萎びた木蓮を尻目に揺れている。
「ああ、もう…春も盛りだねぇ…」
背後からゆらりと現れた影の蛇がするすると書架へと這い登り、積み上げられた漢詩全集の中へと入っていった。








「何度この本を読んでいるんだい?」
部屋で論文を書いていると、我が物顔で部屋に寝転ぶ元同輩が、粗末な作りの本を捲りながら尋ねた。家の何処からか持ち出してきたらしい、饅頭の箱を脇に置いている。既に食い尽くしてしまったらしく、箱は既に空となっている。
「四、五回は読んだな」
「名文なのかい?」
「否、名文、と言える程の文ではないんだが、そうだな…好みではあるな」
丘山が無関心なのを隠そうともせず、ばらばらと頁を捲る。名もない作家の同人誌で、簡素な造りながらもどことなく装丁に味がある。正式な出版物だけでなく、こうした個人の書き物を扱っているのが、八筬古書店の特徴だ。
「へぇ…処で酷く曖昧な結末だね」
「上、となっているだろう。どうやら続きがあるらしい」
「下巻は買わないのかい?」
「読みたいものは読みたいが…」
ふと思い立って、換気の為に障子を開ける。薄い紫と淡い青の紫陽花が、ぼやけた曇り空の下、ひっそりと庭に繁茂している。
ちら、と愛用する文机の引き出しに目を向け、仕舞ってある真鍮の鍵を思い浮かべるが、止めた。
「いや、潔く諦めるか…」
再び机の方に足を向け、引き出しから件の鍵を取り出して、素早く縁側に向かい、紫陽花の群れ咲く中へと放る。重い金属の鍵は柔らかい土に着地したらしく、かさりと葉を揺らしただけで、後には何の返事もなかった。
「拾って来ようか」
にやり、珍しく殊勝な事を言う丘山に、欽十朗は皮肉めいた笑みを返した。どうにも鍔鬼に何度あれは僕なのだと言われても、悪友じみた感覚で接してしまう。
「馬鹿を言え。あの古書店に今入ったら、次は俺が宿主にされるに決まっているだろう」
「なんだ、わかっていたのか。なら君はどうしてあの店主を止めなかったんだい?」
昔、まだ欽十朗が物心着いたばかりの頃に、古書店の主人が言った事がある。
この古書店には、文字を喰って活きる影の蛇が棲んでいるのだと。
しかし、近頃欽十朗が怪異を怪異として視るようになると、あの古書店の内を這い回る黒い影が、本を喰う類のものではないと気が付いた。見れば分かる。あれは本に載った炭を喰うような、そんな単純で高尚なものではないと。
「自分から終わろうとする者を、止める理由もないだろう」
あの蛇は、代々血に潜んで宿主に寄生して生きる妖だ。宿主の魂魄を、頭の中にある言葉や文字ごと引っ張って、少しずつ喰らって生きているのだ。だからこそ、短命の家系となっていたのだろう。宿主自身の言霊を喰らい尽くされないよう、読書によって、常に他者の言霊を取り込み、紛れさせなくてはならない。証拠に、特に熱心な読書家ではなかった人物は悉く早世している。書痴でなければ、長生きは出来ないのだろう。
確か故八筬翁はあの古書店とは別な場所に居を構えていた筈だ。書庫を締め、自宅でしめやかに暮らしていたとなれば、結末は目に見えている。宿主の死期を悟った蛇が何処で次の犠牲者を待っているのかなど、愚問でしかない。
「それに…故人の意志とはいえ、半分以上は蛇の意志だろう、あれは。そこまでして行く義理はないな」
「成る程、あの御節介な守護を煩わせる必要もないという訳だね。結構な偽善者じゃあないか」
「そうだな」
あっさりと肯定されたのが面白くなかったのか、丘山は黙ったまま、饅頭の箱と古本を片付けもせず何処かに行ってしまった。
そういえば彼奴、そもそもまだ単位は大丈夫なのか、と場違いな理由に眉を顰めながら、俺は障子を閉めて文机に向き直り、万年筆を原稿用紙に滑らせた。