第玖話. 櫛神

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私の髪はぬばたまの、長い長い八尋髪。
女の髪と共に歩むと定められた私という存在は、酷く孤独な癖に孤独を認めたがらない。
嗚呼、醜く美しく滅びゆくもの達の、何と羨ましい事か―――…




私は才木和祢(さいきかずね)。
公家の末裔である才木家の一人娘として産まれた。しかしその家は既に、とうの昔に没落している。普通ならば、自分達がどのような血筋なのかも解っていなかっただろう。
私が、私に連なる血筋を知るのは、偏に祖母から母へ、母から娘へと口伝えで教わる一族の奇談と、この櫛の為だ。
「良い所ね」
高い山に囲まれた盆地だ。今は空が重く濁った夕暮れ時だが、晴れていたなら、もう直ぐ月が昇る頃だろう。山からぽっかりと浮かぶ満月は、この谷に映えるに違いない。
静かで、しっとりとした空気が肌に心地良い。結構な数の人が住む町でありながら、がちゃがちゃと目に煩い魑魅魍魎の類が殆ど居ないのも、好ましい。疲れるのだ、私のような人間は。普通の町が、村が。
寄る近代化、西洋化の波が、土地と一体化し切れていない事による摩擦が。
それに引き換え、この梅花皮という町は全てが均一に調和されている。
『ほほ、過ぎた言葉、と申したい所だけれど…土地に関しては、和祢さんに同意しますわ』
耳許で、聞き慣れた女の声がする。少し気取ったような喋り方と、気位の高そうな音。姿は見えないが、はっきりと存在が感じられる。
彼女は、櫛神という。
外套の内ポケットに入れた彼女の本体を、布越しに撫でる。半月型の、歯と歯の間が狭い、見事な細工の櫛だ。才木家の家紋である雁の図案が彫り込まれている。
はらり。一片の雪が鼻先を掠める。
私が櫛神に出会ったのも、こんな雪の日だった。
母が亡くなったその翌日に、母の鏡台の引き出しから、櫛神が私を呼んだ。そっと引き出しを明け、彼女を取り出してみると、泣き腫らした私の頭を白い手がそっと撫でた。
『和祢さん、これからは私が貴女を護りますわ。我が主よ。我が幾重にも連なる継嗣の姉妹よ。命果てその血尽き果てる迄…』
果てしなく続いているかのような長い髪を垂らし、右目の下には小さな泣き黒子が一つ。切れ長で怜悧な目は慈愛に満ちていて、白い着物に墨染の帯と、雁が織り込まれた淡藤色の上掛け姿は、ずっと変わらない。
十歳の時からずっと、八年間、櫛神は私と共にあった。きっとこれからも、私は櫛神と共に生きて行くのだろう。家族に無関心で、私財を集めようと躍起になっている父ではなく、櫛神が私を護ってくれる。
何か重要な決断をする時には何時も、櫛神が助言してくれた。私の心と、体と、両方に取って良い結果が出るように心を砕いてくれる。女だからか、しばしば辛辣で高飛車なお喋りが多くはあったけれど、私の事ばかり考えていて、滅多に自分の話はしない。口の悪さに反して、優しい女なのだと思う。
そんな櫛神が、初めて自分の望みを口にした。『梅花皮に行きたいわ』と、独り言のように呟いたのを、この耳で聞いた。
だから、ここに来た。
「…櫛神、今、何かした?」
階段を上ったいる途中、場の空気が変わったのを感じて、問い詰める。何かが網のように張り巡らされている感覚がある。何か危機が迫っている時、櫛神は何時もこうする。
だが、今は何の危険もない筈だ。妖の類も見受けられない。
『ちょっとした悪戯…いえ、必要な下準備、といった所。和祢さんが心配する事ではありませんわ』
「そう」
この町に来てから、櫛神は少し浮かれている。もうそろそろ、その理由を尋ねてみても良いだろうか。
「ねぇ、櫛神」
『なぁに?和祢さん』
「この町には、何があるの?」
それはきっと、この谷のように美しいものに違いない。簡略の美を体現したような。
『そういえば、話していませんでしたね。この町には―――わたくしの、可愛い可愛い末妹が居りますのよ』




はらりはらりと散る雪に、和祢の吐く息が白い。
風邪を引かなければ良いのだけど、と思いつつも、この場所に大切な主を引っ張ってきたのを、微塵も後悔はしていない。何故ならわたくしは、あの妹が許せないのだから。
許さない。
許さない。
許さない、絶対に。
わたくし達はその昔、各々が腕の良い職人の心血に依って、此の世に引きずり落とされた。人の使う道具として。
そして、ありとあらゆる災厄、魑魅魍魎の諸々に脅かされる主を護る、それが為に鬼となった。わたくし達を礎に、あの呪術師が呪を掛けた。主が授ける名に加えて、人に似た姿と力を与えた。それがわたくし達を姉妹として繋ぐ。
老いず、死なず、裏切らず。わたくし達は否応なしに、主を愛してしまう慈しんでしまう。
櫛神、と、名を授けられし此の身は柘植櫛、櫛の鬼。鬼を転じて、神。故に櫛神。
先祖の貶めた男の妄執により呪われた、才木家の女児を護る為に在る櫛だ。呪いの所為で、才木の名を継いで産まれた女は見てしまう。恐ろしい百鬼夜行を、忌むべき妖の非道を。その澄んだ目は濁る事を許されない。見てしまう聞いてしまう触れてしまう。無視など出来よう筈もない。其れはただ其れとして、真実として在るのだから。
残酷な呪いだ。
呪いとはえてして残酷にして無情なものと相場が決まってはいるが、それにしても、このような少女が、本来ならば忌み事とは無縁であった筈のものに其れが課せられるというのは、本当にやり切れない。
やり切れない。
そう、わたくしも。
『さぁ、雪で足元も危ういでしょうし、焦らずに参りましょう。ゆっくりと、ね…』
ふわりふわりと粉雪が、主の外套に、枯れた草の上に、降り積もる。
徐々に白く染まってゆく視界の中で、まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされた黒い髪が目立つ。しかし、これも和祢には見えてはいない。余程強い力の持ち主でなくては、感じ取るのすら難しいだろう。
嗚呼、鍔鬼は、鍔鬼の主は、何時気付くだろうか。





仏頂面にしては珍しく、元学友であり現在青の―――不本意ながらも主である欽十朗が、腕を組み眉を寄せ、首を捻っていた。
「どうしたんだい?」
「いや…」
少し口籠もり、言葉を選ぶ。
「何故か、何時もと景色が違うように見えるんだが…気のせいだろうな」
広い廊下にぽっかりと空いた、丸窓からは梅花皮の谷が一望出来る。先程から降り続く雪が、早い冬の訪れを告げている。
様子がおかしく見えるのは、きっと雪のせいだろう、と結論付けて自室へ戻ろうとする欽十朗を尻目に、目を凝らす。
「いや…気のせいではないよ」
「何だって?」
「精巧な呪が、谷中に張り巡らされている。力こそ弱いけれど、ね。誰だかは知らないが、術の造り方が上手い」
この僕でも言われなければ気付かない程、巧妙に張り巡らせてある。谷全体を覆っているという事は、力が弱くともどうとでもなる。微弱な力であっても、連鎖的に行動を起こせば充分だ。
「嫌な手だ」
思わず吐き捨てるように言ってしまったのは、同族嫌悪というやつだろう。気に食わない。
「鍔鬼に言った方が良いな」
苦虫を噛み潰したかのような表情を見て事態を察したのだろう。欽十朗が呟いた。
「女の髪が見える」
目を凝らした先には、網の目に張り巡らされた、黒く、艶やかで細い糸があった。




何故、今頃になって、と、鍔鬼は唇を噛んだ。
まるで粗を探すかのように執拗に、長い髪が谷を這い回っている。僅かな穴も見逃さず、鍔鬼と椿が編んだ谷の綻びを、見付けては髪が塞ぐ。
まるで己が体に虫が集るような嫌悪を覚えると共に、燃え立つような怒りが鍔鬼の心を苛んだ。
よくも、人の領域に土足で。
舌打ちをしたい位だったが、そんな行動に意味はない。何の仕業かは既に分かっている。けれど、目的が解らない。相手から此方に関わろうとしているのなら尚更。
魂の姉妹として定められた鬼の一人、三番目の櫛神…女を護る為に造られた、女の鬼だ。
「一体、何を考えているっ…!」
ぎり、と頬の肉を噛むが、器物たる鍔鬼に血などない。鉄の味のしない痛みは、彼女の怒りを鎮めてはくれなかった。
「鍔鬼」
慣れた仕草で、欽十朗が倉の扉を開けた。少しの風と共に雪が入り込む。
鍔鬼は咄嗟に感情を鎮め、表情を取り繕った。
「谷に、誰かの髪が張り巡らされている」
「ええ、もう分かっているわ」
駄目だ。怒りを鎮めなければ。でなければ、梅花皮を、欽十朗を守れない。考えて。あの名前で繋がれた姉妹の手の内を。
「目的は分からないけれど、あれは私の姉妹の仕業よ」
「姉妹?刀か?」
「いいえ、櫛よ。櫛を使って作られた、主人を護る鬼。わたしたちは、同じ呪術師によって鬼にされた。名前によって鬼になるわたしたちは、全部で十人。十人とも、名前で繋がれているの。わたしはその十番目で、あちらはその三番目」
三、という数字は、呪に於いて特別な意味を持つ。一から十の数字の中で、最も力の強い数だ。一は始まり、二は分岐、三で物事は漸く流動する。世界の動作を表す数字。
特別なのは、一、三、八、そして九。
わたしはそのどれでもない。末席の十番。
「普段、わたしたちは各々自分の主人を守っているから、普通に考えて対立するとは思えない。でも、もしも相手の主人の生死に関わる事柄がわたしたちに深く関係する事だとしたら…わたしたちは主人を救う為に手段は選ばない。そのように出来ている。喩え、魂で繋がれた姉妹に仇なす事で、自分の魂に疵が付いたとしても」
「鍔鬼」
「櫛神は決まった土地を持たない。嫁して住処を変える女に憑くと決まっているから。土地と繋がらずとも力を発揮出来るように三という数字を与えられた。その櫛神が、わたしが数百年を掛けて編んできた谷の呪に潜り込んでいる。もしも、櫛神が地の力を必要としているなら―――」
「鍔鬼!」
欽十朗が声を張り上げた。
澄んだ、漆黒の瞳でこちらを見ている。真っ直ぐに此方を。嗚呼、嗚呼、何て高潔で美しい、我が十番目の主。凛々しく静謐な、その心その魂。わたしが磨き上げた。数百年の時を掛けて、この土地で。
「欽十朗、無理だ。わたしでは櫛神に勝てない」
既に、殆ど全ての綻びを占拠されてしまった。後はその隙間から、鍔鬼の張り巡らせた呪を剥がして、新たに呪を敷けば良い。
肩に、欽十朗の手が降りてきた。大きな、皮の厚い手だ。刀を扱う為の手だ。
「鍔鬼…」
まるで兄のような声だ。それは半分、間違ってはいないのだけれど。
苦しそうにまるで我が事のように眉を寄せ、たかだか一振りの刀に心を砕く。何時もなら誇らしく思うその優しさを、今だけは少し、怨みたかった。
「ごめんください」
ふと、玄関から涼やかな女の声がした。倉とは正反対の場所の、離れた所からの声はつまり、何かの幕が切って落とされた事を示唆していた。
「ごめんください」
もう一度、此方の様子を窺うように声を掛けてくる。
欽十朗は座った鍔鬼に合わせていた視線を外して、来客の元へと向かった。
倉を出て母屋の縁側から廊下を歩く。幼い頃から散々歩いてきた古い木の床が、何故だか果てしなく長く続いているように感じられた。雪の放つものだけでない冷気が冴え冴えとして、欽十朗の体を包んだ。
ゆっくりと一歩一歩進んで、広い玄関の正面に置かれた衝立の向こう側へ行くと、黒い外套を着た少女が居た。
「こんばんは」
長く、青みすら帯びた艶やかな黒髪は、腰の辺りまで真っ直ぐに伸びている。体躯は、この年頃の少女にしては驚く程細い。風が吹けば折れてしまうのではないだろうかと、見る者に思わせるが、しかしその黒檀のような双眸には、強い光があった。明確な意志を持って進む者の目だった。
「…失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「はじめまして、才木和禰と申します。この度は私の、その…守護がこちらにお邪魔したい、というもので…」
「ああ…」
この少女が、鍔鬼の姉、櫛神という鬼の主なのか。
「どうぞ、上がって下さい」
姿は見えないが、人とも妖とも違う気配がする。その名の通り本体が櫛ならば、外套の内ポケットにでも仕舞っているのかも知れない。
敵意も悪意も感じられはしなかった。だが、倉に向かう道を案内する間、無性に息が詰まった。
これから、今まで出逢ってきた怪異とは全く違った、自らの持ち得る全てを揺るがすような事が起こる、という勘よりも確かな確信があったからだ。






数百年振りに相見えた妹は、私の姿を見るなり、恐慌も露わな様子で叫ぶように吐き捨てた。
「櫛神っ…!」
倉の中に縛られ続けた累月の記憶と愁いが、鞘の艶に深みを増している。
私を睨む瞳の光が、決して奪われてなるものかと、主に受けた愛情を映している。
華々しく整えられた鍔が、責務を果たしてきたのだと物語っている。
嗚呼、佳い鬼よ。
我が魂の妹ながら、美しい般若になった。その、姿。姉に適わぬと打ちのめされ、床にくず折れていても麗しい。
見事よ、禊紅梅、鍔鬼。
「ほほ、良い様だこと、鍔鬼。でも、名で繋がれた姉に向かって…感心しませんわね」
倉の周囲を確認する。感覚を総動員して、探る。屋敷の中に狐が一匹入り込んでいるが、あれは眷属だろう。未だ完璧に御し切れてはいないが、良い妖だ。
「…何をしに来たの、姉さま」
「可愛い妹の様子を見に来ただけの事。そして、その主を…」
一目見て、美しい男だと思った。顔立ちではない。心の在り方が、姿勢が美しいと思った。互いに影響し切磋琢磨してきたのだろう。羨ましい事だ。
そう、羨ましい。
いっそ恨めしい位に妬ましい位に。
「この手…どういう事だか、わかっているのでしょう?鍔鬼」
青年の手を見やりながら言えば、毛を逆立てた猫よろしく、剣呑な殺気が吹き出した。武具に相応しい闘争本能。
「見事に錆させたものよの…守護の癖に椿を潰す気か?」
「煩いっ…姉さまには関係ないでしょう!」
「ああ、はしたない…無様よ。鍔鬼、あなたがもう鍔鬼を守らぬと申すなら、この私がその妖力、貰い受けよう。今までご苦労であったな、我が妹よ」
主の肌に這う忌まわしい黒錆に、痛ましいような、哀れむような、悲しむような色の目を向ける。整った少女の顔が歪む。泣こうとも、泣けもせぬ身の厭わしさよ。
手を伸ばす。丸い額に手を伸ばす。爪の先が触れ、そして、




そして、櫛神の手が触れた途端、鍔鬼の姿は消え、一振りの刀、禊紅梅が乾いた音を立て床に落ちた。
「鍔鬼…?」
呼び掛けようと、返事はない。
冷や汗が全身から噴き出す。不吉なものの足音が聞こえる。不安や恐怖がそれだ。何故だか、見慣れた刀の姿が、何の変哲もない只の刀に見えてしまったのだ。
―――あれは、鍔鬼ではない。
欽十朗は瞬時に結論へと達していた。心臓の拍動が太鼓のように激しく頭を揺らす。
くるり、櫛神が振り向く。
何時の間にかやって来ていた丘山と欽十朗をその怜悧な眼差しで同時に射る。

「椿欽十朗、禊紅梅鍔鬼が主」
ゆったりとした余裕のある口調の中に一筋、鞭を打つような強い音が混じる。
「鍔鬼がこのようになったのは、お前のせいだ」
断言され、息を呑む。鍔鬼は何も言わなかった。
何故、何も言わなかった。
否、何故、腕の痣が黒錆だと隠していた。
「証拠に、お前の腕に証はない。椿と鍔鬼の縁は切れた。最早お前は鍔鬼の主ではない」
ふと腕を見ると、嘘のように黒錆は消え失せていた。何時か、これに似たような事があった。
ああ、そうだ。紅子が紅子ではなく、鍔鬼になったあの日、記憶を消す為、欽十朗が禊紅梅鍔鬼の名を、銘を忘れたあの時。あの感覚に似ている。
だが、喪失感は比べ物にならない。
「…どう、すれば」
心が、魂が叫んでいる。身体の奥深くから。血を吐き喘ぐように。
「どうすれば、良い」
もがれた利き手を取り戻せ、と。




「人の子よ、お前の願いを聞き届けよう」




櫛神が、まるで花が綻ぶように、しかしそれでいて不敵に微笑んだ。待っていた、と言わんばかりに。
「幸い、お前の顔には鍔鬼の付けた傷がある。ほんの僅かではあるが鬼の琴線に触れた証が、お前に選択を許すだろう」
すいと手を伸ばし、細い指が頬を覆う。掲げ持つように見聞する。
「ッ…おい!…」
何かに気付いた丘山が手を伸ばそうとするが、遅かった。
嫣然に微笑んだ櫛神は、その優しい指先で、目の下に残る疵痕を撫ぜた。
「行け」
既に腹は据えていた。






椿欽十朗の体がぐらり、糸の切れた人形のように倒れようとした瞬間、爪だけを原型に戻した手で目の前に居る鬼に挑もうとする自分を自覚した。何故こんな事をしているのだという至極真っ当な自問に対する回答を出すよりも前に、振り上げた腕が止まった。
幾重にも渡って、蜘蛛の巣にも似た長い女の髪が、その動きを止めたのだ。
本数にして僅か十、普通の髪ならば何も問題ではないだろうが、これは鬼の操る髪だ。鎖のような強さで以て、腕を締め上げる。
「下がれ狐」
気圧され、腕を下げると、髪が緩んで床に落ち、櫛神の髪と同じく、闇に溶けた。
皮膚が断ち切られるような痛みに、眉根を寄せる。
同時に、ふ、と冷たい視線を向けてきていた櫛神の表情が綻ぶ。しずしずと、しかし隙なく近寄ってきて、白雪の手を伸ばす。
何を、と口にする前に、滑らかな指が頬に触れてきた。
「ふふ、可愛い事…」
「なっ」
まるでからかうように一撫で。櫛神の仕草はあくまでも優美でいて、余裕がある。
主であるという人間の少女も、眉一つ動かさず事の成り行きを見守っている。
「安心せい。お前の主は眠っているだけ…三途より深き深淵に沈み、鍔鬼を探しておるのよ」
「仮死の術か…」
「違う。三途とは人の渡る川。深淵とはその三途の底にあって、鬼の御霊が沈む場所。本来、人の力の及ぶ場所ではない。例え妖だとして同じ事。ゆめ手を出そうなぞ思うな」
考えを全て見透かされ、歯噛みするしかない。流石は歳月を経た鬼だ。老獪な化け物だ。
あの鍔鬼が勝てないと断言する相手、更に弱い己が何をすべきか。賢しい狐は直ぐに答えを出した。
「なら、何故そんな鬼の浄土にたかだか人間を入れてやったんだ」
単刀直入に切り込む。恐らくは何も知らされていなかったのだろう、櫛神の主たる少女も、己が守護を注視する。
「知れた事。対話をさせる為よ」
櫛神が袖口で口元を隠す。また冷たい瞳を向ける。
「あの者が鍔鬼を見付け、新たに契約を交わせば吉。鍔鬼の魂は汲み上げられ、禊紅梅は鬼として此に帰る」
「なら、何故谷に髪を張ったんだ」
「土地と刀、刀と椿を繋ぐものが必要だった」
人は陽、鬼は陰。男は陽、女は陰。刀は男。櫛は女…本来、鍔鬼は鍔鬼たるべきではなかった。
しかし、元来陽の気が強い椿家の者を守り、谷の穢れを祓うには、男の腕と成り得る刀でなくてはならなかった。だから、刀を使うしかなかった。無理をしてでも。
元より、鍔鬼の目的は主人と同調し困難に立ち向かう事ではない。主人と調和して調停するのが役目。致し方ない事だったとはいえ、強い陽の気を持つ椿の者とでは、何時か契約に綻びが出来るのは目に見えていた。




そのままにしておけば、鍔鬼は消えてなくなる。




今の繋がりを、呪による縁を切らせぬ内に、また結び直すしかない。
「並みの術者では出来ぬ事だが、わたくしの髪ならば、彼奴らの対話が終わるまで保たせられる」
ぴん。白魚の指が爪の先で一本の髪を弾く。暗闇から真っ直ぐに伸びるそれは鍔鬼、否、禊紅梅に繋がっている。
「櫛神…どうして、そうまでして…」
少女の瞳が揺れる。真意を探っているのだろう。
「簡単な話ですわ、和祢さん。わたくし、貴女が大好きなの」
「櫛神…?」
「いいえ、貴女だけでなく、今までの主は皆そう。でも、皆、わたくしを置いていってしまう…」
決して、老いず死なず裏切らず。鬼は主と共にある。その名に銘に掛けて魂を掛けて。愛してしまう。




「私が死ねぬというのに、先に死なせてやるものか」




ああ、羨ましい妬ましい。
主を看取るばかりの鬼が、華咲くような場所で此岸の浄土のような土地で、主に看取られ逝こうとは。
きっとそれは、蓮台に昇るような心地がするに違いない。
妹の身でありながら、ただ残されるばかりの私を置いて、一人逝くなど、許さない。許さない。























上も下も判らぬ黒。黒一色だった。
しかし、ぽつりぽつり現れるぼんやりとした光の球を見て、欽十朗は漸く、視界を埋めるのが黒ではなく闇だと知った。闇の中に、何時か見た夜光蟲にも似た、しかしそれよりも様々な色合い、様々な大きさの球が、彼方は浅葱、此方は朱色にと、まるで祭の提灯のようにして浮かんでいるのだ。
「鍔鬼!」
ひとつ、少し離れた場所に、紅色のものがあった。それはまるで胎児のように丸くなった、椿色の着物を着た鍔鬼だった。
まろく溶ける輪郭は朧で、今にもただの、光の球と同じになってしまいそうだ。
「鍔鬼…」
近くへ、そう思った途端、宙に浮くような感覚だった足がしっかりと歩みを始めた。実際に近寄ってみると、鍔鬼は長身の欽十朗が僅かに見上げねばならない位置に頭がある。
抱き留めようか。
だが、安らかにしかし人形のように眠るその顔を見ると、おいそれと触れる事は出来なかった。
ずき、と、何時か目の下に付けた傷が痛む。鍔鬼の刃に触れた証。
「…鍔鬼、頼む。聞いてくれ」
益々以て、少女の姿をしたものが、個としての鬼が溶けかかる。
「俺の名でも、魂でも、腕でも、何処からでも良い。繋いでくれ。お前の銘に、俺の銘に。だから、頼む」
髪の栗色が、肌の白が、消えて、着物と同じ清らな色に染まる。椿。武士の花。潤塗の鞘。紅梅と同じ色。
「頼む。行かないでくれ」
行かないでくれ。捨てないでくれ。谷を、鬼を、椿を、刀を、捨てないでくれ。




「もう一度、約束をしよう」