第捌話. 夜行蟲

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蛍の終わった季節に、薄青く光るものが横切る。
まるで人魂のようなそれは、何処か恐ろしげでありながらも儚く美しい。








「欽十朗、妖退治をするわよ」
何時の間に着替えたのか、鍔鬼は藍鉄色の地に蛛の巣をあしらった着物を身に纏っている。白に銀を編み込んだ糸を使って、蜘蛛の巣と蜘蛛それ自体を描いてある。帯は白、帯留めは秋草に鈴虫だ。
にっこりと笑う鍔鬼の後ろには、疲れ切った様子の丘山の姿があった。滑らかな艶を湛えている筈の毛並みは心なしか乱れていて、どうやら鍔鬼にあれやこれやと文句を付けられていたらしい。
丘山自身も正装するように言われでもしたのか、要所要所に玉をあしらった大陸風の衣服を着ている。夏らしく水浅葱に染めた質の良い、麻と綿を使った生地だ。腰紐は薄荷色で、珍しく髪を長く伸ばし、紐で結わえている。
二人の様子を観察するに、正装、というよりは盛装、という方が正しいのかも知れない。
「妖退治?」
「そう」
妖退治だというのに、何故だか鍔鬼は上機嫌だ。
「ほら、さっさと行きなさい、青」
「何で僕が…」
「行きなさい」
鍔鬼が刀身を僅かに抜くなり、丘山はぶつぶつと文句を言いながら、そそくさと屋敷の外へと出て行った。
「さ、始めましょうか」
鍔鬼が倉から一歩出て手を翳すと、薄ぼんやりと白く光る、巨大な蜘蛛の巣が倉と母屋の間に張り巡らされた。
「後は待つだけ。あの狐では余り頼りにならないだろうから、気長にね」
すとん、と倉の門前にある石段に腰を下ろし、鍔鬼がふふふ、と微笑む。
「一体何が始まるんだ?」
「見ていればわかる」
欽十朗も、鍔鬼の隣に座って、じっと待つ。
秋を迎えた夜空は澄み渡り、幾つもの星が瞬いている。雲ひとつない秋晴れに、草むらの中で虫が鳴いていた。
「ああ、来た」
ふわふわと、小さな青白い光が舞い、こちらへとやってきた。最初はたったひとつであった筈のそれは、どんどん数を増してゆく。まるで螢の大群だが、それよりも冷たい光をしている。
「鍔鬼、これは…」
「夜行蟲というの。昔から谷や浦に居る蟲。少しなら土地を富ませるが、増えれば人や獣に集って惑わす。惑わされたものは、二度と此岸に帰っては来られない」
だから、時々こうやって減らさなくてはならない。そう続けて、蜘蛛の巣を見やる。
隙間からちらほらと通り抜けるものがあるのを見て、欽十朗が尋ねる。
「あれは良いのか?」
「これ位の数なら、引っ掛かったものだけで、充分」
ぶわ、と一気に視界を埋める程の大群が来たと同時、息を切らした丘山が戻ってきた。鍔鬼が柳眉を寄せる。
「もぅ、どうして一気に纏めて連れて来るの。情緒がないったら…」
「は、早く行けと言ったのはそっちだろうが!」
「早く行けとは言ったけど、早く戻って来いとは言っていないわ」
「無茶を言うな!」
「煩いわね…」
鍔鬼がまた、刀の柄に手を掛ける。丘山はまだ何か文句を言いたい様子だったが、すっかり恐怖が刻まれているのだろう。反射的に口を閉じる。
そんな丘山が、腕に鬼灯の束を抱えているのを見て、気付く。夜行蟲は、鬼灯の周りに集まっているのだ。
じっと見ていたのに気付いたのか、丘山がにたりと笑う。例に拠って、嘲笑に近い、何処か含みのある笑みだ。
「そうか、欽十朗、知らないのか」
「何を」
「夜行蟲は、人を殺すのさ。谷や浦に一人で佇む人間にそっと近寄って、口の中に入り込む。口の中に奴らは集って、その内のひとつが腹の底に落ちると、魂魄に寄生して産まれ直そうとするのだよ。しかし、所詮は低俗な蟲だ。魂魄を食って育とうとしても、産まれ出る筈がないのさ。大抵はより濃く生命が満ちる樹海や沖に向かって歩いて行って、人間の体ごと死ぬ。よしんば人の方が中々死ななかったにしても、魂魄ごと弾け飛んで終わりだ。だから、こいつらは、人の魂魄に似たものに入りたがるのさ」
「人の魂魄ってのは、鬼灯のような形をしてるのか」
「ああ、そうさ。丸い、緋色か珊瑚色の、ちっぽけな丸い塊だ」
きっと、丘山は脅すつもりで言ったのだろう。しかし、欽十朗はといえば、自分の口の中に夜行蟲が入るのを想像すると、何やらそれが、奇妙に美しい事のような気がした。確かに恐ろしくはあるが、それでもこの薄く青い光と溶け合って、山や沖に還るというのは、酷く優しげな死に方のような、そんな風に感じられた。
「狐、お前に欽十朗を脅かすのは無理だ」
全く怖がる様子のない欽十朗を見て、鍔鬼が微笑みながら、丘山に皮肉を投げる。丘山はというと、企みが不発に終わり不機嫌になったようで、鬼灯の束を石段の上に放ると、腕を組んでそっぽを向いてしまった。
見上げれば空は益々高く、シャツ一枚では、長袖とはいえもう肌寒い。秋が来れば、直ぐに冬だ。山野の冬は長く秋は短い。冬が来れば年が暮れて明けるまではほんの一瞬で、年の瀬と共に、全ての始まりの季節がまた、訪れる。
一年前までは、まさか、妹と友人の両方を無くして、代わりに刀の鬼と狐の妖と共に過ごすようになるとは、全く、予想すらしていなかった。
「欽十朗」
傍らに立った鍔鬼が、真摯な目で見上げてくる。
「妖や、怪異を畏れずにいてくれて、ありがとう」
そろりと小さく白い手を伸ばし、黒く錆び付いた手を握る、鍔鬼の言葉は、余りにもささやかで切実な願いのように聞こえて、欽十朗は僅かに目を細めた。
草むらでは、未だ鈴虫が絶えず鳴いている。