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ここにこの文章についてのメモとか参考とか注釈とか
橘の白い花が咲く。
常に緑を絶やさぬ不死の象徴も、夏ばかりは浮かれて生を謳うのだろうか。
まるで豪華絢爛な、チンドン屋のようにそれは華美だった。
騒がしく管弦楽の音を撒き散らしながら、それは山を下っていた。提灯や楽器を持った無個性な顔立ちの従者が容赦なく車輪を回転させる牛車に、涼しい顔をして付いて行く。ちらりと見えただけだったが、その業界の縁には、金で雪と、茅の紋が唐草の中に描かれていた。
「…何だ?」
これには欽十朗も流石に驚いて呟いたが、気配が濃厚なのに反して悪い感じはしなかったので、そのままにしておいた。
町の中心部に向かっているのが気掛かりといえば気掛かりだったが、取り敢えずは大丈夫だろうと、本で重くなった鞄を背負い直して家路を急いだ。
「ああ、やっぱり来たのね――…」
さっき見た牛車の事を話すと、鍔鬼は盛大に嫌そうな顔をした。今日は鍔鬼お気に入りの淡い桃色や桜色、杏色の花を散りばめた花鳥風月の柄の着物を着ているが、それもそんな顔をすれば台無しだ。赤い帯が泣いている。
「欽十朗…わたしを橘灯籠の所まで連れて行って頂戴」
「外に出ても大丈夫なのか」
「ええ、あれが居る間は大丈夫よ」
心底行きたくない、というのを全身で表した鍔鬼に、青が尋ねる。
「所で、橘灯籠というのは一体何だい?」
「そうか、丘山は知らなかったな。以前、この瓶を運んできた時に、池があっただろう。あの池を越えて、更に山の方に進んで行くと、奥まった場所に立派な灯籠があるんだ」
その灯籠は何でも、話に依れば平安の昔、地方へと旅行に来た貴族が気紛れに立てたものだという。傍にはこれも樹齢何年であろうかという橘の木が茂っていて、故にこの灯籠と古木を纏めて、橘灯籠と呼ぶ。
梅花皮町に住む者であれば、一度は耳にした事がある場所だ。夏場、そこは有名な肝試しの場になっているのだから。
「あの橘灯籠はね…人の為に作られたものじゃないのよ…」
「妖の為のものなのか?」
「いいえ」
では一体?、と欽十朗が聞こうとすると、
「神よ」
呟くように言った後、鍔鬼は深く長い溜め息を吐いた。
それからは、鍔鬼の指導の下、隣に並んだ二つの倉から、やれ朱毛氈やら茶器やら、硯箱やら、思い付く限りの道具を大八車に乗せてゆく事となった。
「狐、何か弾ける楽器があれば持って行きなさい」
「僕は琴も琵琶も笙も出来る」
「…たまには役に立つわね。いいわ。それ、全部探して積みなさい」
「鍔鬼、もう積めそうにないぞ。琴で限界だ」
「そう。なら笙と琵琶は自分で持ちなさい。悪いわね欽十朗、大変でしょ?」
有無を言わさぬ口調で命じて、鍔鬼はひょいと大八車に飛び乗った。
後には青と楽器だけが残された。
橘灯籠の近くまで来ると、楽しげな話し声と雅楽の音が聞こえてきた。それはもう楽しそうに、まるで花見のように、大勢のものが歌い、笑っている。
「まるで祭りだな」
欽十朗の膝までしかない魑魅魍魎が陽気に踊りながら目的地へと歩いてゆくのを見て、僅かに微笑む。
普段は禍々しく湿った雰囲気しか感じ取れないもの達が、何処までも面白おかしく滑稽に騒いでいる。
「そうね。祭りだわ。数年に一度の」
大八車から降りて、鍔鬼も苦笑する。
「さ、行きましょう。もう始まっているわ」
鍔鬼に誘われて橘灯籠の所へ行くと、既に宴は始まっていた。おどろおどろしい姿をした小鬼達が、笛を吹き太鼓を打ち鳴らして遊んでいる。音調も何もない、てんでバラバラの演奏だったが、動きが妙に軽やかなのが滑稽で面白い。
「あはははは、愉快愉快。これ、もう良い。それ以上やられては妾の腹が裂けてしまうわ」
高い女の声がして、小鬼達が演奏をぴたりと止める。声の主は女で、上方風な化粧を施した顔に、目にも鮮やかな十二単衣を着ている。
その隣にはこれまた立派な狩衣姿の若い男が立っていて、のほほんとした表情で惜しみない、しかし品の良い拍手を贈っている。その男が、穏やかな笑みを湛えたまま、鍔鬼の方を向く。
「おや、其処に居るのは鍔鬼ではないか」
「はい、お久しぶりです。松露の君」
鍔鬼が深々と頭を下げた所で、女の方がすかさず口を挟む。
「おお鍔鬼か!待ちくたびれたぞ!」
「淡雪姫様もお元気そうで何より…」
「挨拶などよい、よい。妾の為に早う芸を…ん?お主、何じゃその格好は」
整った瓜実顔の淡雪姫が、壮絶な迄に渋い顔をした。すっきりとした顔が盛大に歪む。
「は?」
何とか声を発した鍔鬼に向かって、すかさず言葉が続けられる。
「柄ばかりが派手で、図案に意匠がないのが原因やも知れぬのう。出来損ないの襖絵が歩いてきたのかと思うたぞ。お主、暫く見ぬ内に倉の埃で目が濁ったのではあるまいか?妾からしてみれば、そのように下品な柄の着物を着るとは、正気の沙汰とは思えぬ吉…何ぞ不幸でもあったのか?」
絶句。と、正にそれが相応しいであろう。
鍔鬼の肩がわなわなと震え、そして震えたまま一礼をしてさっと踵を返した。
先に述べた通り、あれは近頃の鍔鬼お気に入りの晴れ着だったのだ。ああまで言われてはもう、気持ちの上でもどうしようもないだろう。腹を抱えて忍び笑いを隠そうともしない丘山の態度が、鍔鬼の怒りに拍車を掛ける。
すたすたとその場から出た鍔鬼の後に、欽十朗も大八を引いて付いてゆく。通りに出た所で、やっと追い付いた丘山がまだ笑い転げていたので、鍔鬼の手によって首の皮一枚斬られる羽目になった。丘山が真っ青になって、やっと事態を把握したらしい。下手に刺激すれば、刀の錆となりかねない、と。
「……欽十朗」
「…何だ?」
「今日は帰っても良いかしら?」
「ああ」
出来うる限り冷静であろうとする鍔鬼の努力に、最早何も言う事はない。
結局、この日の夜は橘灯籠と松露の君、そして淡雪姫に纏わる事に関しては何も要領を得ずに終わった。
鍔鬼がこの様子では仕方がないのだろうが、前途多難なのを象徴するかのようで、欽十朗は密かに覚悟を決めた。
「さぁ、行くわよ欽十朗、狐!今日こそあの女を黙らせてやるわ!」
翌日、昼間に着替えを済ませた鍔鬼が、腰に手を当てて言い放った。しかしその表情は自信満々、というよりは、怒りに満ち満ちた笑顔だ。
今日は着物の図案構成に気を遣って、御所車に桔梗の図を選んだ。紫と白を基調とした落ち着いた柄で、帯は濃い蓬、帯留めは銀で造った三日月に群雲という凝りようだ。
その隣では丘山が思い出し笑いをしているが、最早鍔鬼は淡雪姫に対する再挑戦の事しか頭にないらしく、闘志を燃やしている。未だ状況説明を受けていない欽十朗は思考が追い付いていないが、場の空気に凡そ緊張感がないのを見て、大丈夫だろうなとは思っている。
しかし、少々予想外な事が起きた。
「あら、此は良い柄よの。普段よりこのようにせい。目を養う」
「はい、ありがとうございます」
昨夜と同じく、橘灯籠の所へ行って、装いも新たにお褒めの言葉を授かった迄は良かった。鍔鬼も再戦を果たして誇らしげだ。
だが、あからさまに面白くなさそうな顔をしながら、徐に笙を手に取った、丘山こそが問題だった。
「のう鍔鬼、あれはお主の所の楽士か?何故にあのようなみすぼらしい刈り上げ髪の、粗末な麻衣など着せておるのじゃ。けだもの故山出しなのは仕方がないが、あれでは見苦しゅうてかなわん。下がれ。それとも、あのけだものの楽しか芸がないとは申すまい?ん?」
「……ッ!?」
ぱき。と、丘山の持った笙が嫌な音を立てた。
「あの女ッ…!この僕を捕まえてっ…」
普段からつり上がっている眦を更に上げて、まさしく悪鬼のような表情を浮かべている丘山を見て、鍔鬼がうんざりしたように溜め息を吐いた。
結局、丘山が音楽を演奏する所ではない心理状態に陥ってしまい、蔵にすごすごと退散してきた、という次第だった。その丘山は今、怒りに任せて何の罪もない行李に拳を叩き付けている。
「ふっ…やっぱり一筋縄じゃいかないわね。解った?狐…あの女を納得させて宴会に参加するのも一苦労なのよ…」
「宴会?」
やっと質問が出来る状態になったので、質問を試みる。
「ああ、そういえば話してなかったわね。あのおん…淡雪姫と松露の君は…土地神なのよ。あのお二人は数年に渡り蓄積された恨みつらみや憂いを濯ぐ事が出来る。先数年のものまでもね。そしてその程度は橘灯籠の前で催される宴会の成功に関わっている。宴は七日七晩続けられ、その間にこの土地を治める椿の者が芸を披露して成功を収めねばならない」
「それは…凄いな」
生まれてこの方、梅花皮町の土地神の話など聞いた試しはないが、古い土地だ。居てもおかしくはないだろう。
「何だって?土地神?土地神が土地を離れる何て有り得るのかい?」
「普通はないわね。正確に言えば、お二人は梅花皮の土地神ではない。その昔欽一朗が宴に招かれてお褒めに預かったご縁で、定期的に土地の改善をして頂いているのよ。橘灯籠は、その最初の場所。つまり立ち寄り所なのよ」
「じゃあ、宴に参加して、芸を成功させれば良いんだな」
「そうよ」
「なら、少し考えがあるんだが…」
寒造り貴醸酒の瓶を左手に、右手に鍔鬼を携えて、欽十朗は淡雪姫の前に進み出た。後ろでは修復を終えた笙を構えた丘山が、絵巻物の貴人のように物静かに座っている。長く伸ばした髪を結い上げ烏帽子で隠し、目尻には紅を差している。
対して、欽十朗はといえば、白い着物に黒い袴を履き、額にはこれもまた白い鉢巻きを巻いている。袖が邪魔にならぬよう綾襷をしっかりと締めて、精悍な顔立ちに更に洗練された眼差しを備え、深々と頭を垂れた。
すかさず小間使いと思しき子鬼が、酒を受け取って松露の君の元へと運ぶ。穏やかに微笑む松露の君は、矢張り無口なままだ。
「そうかそうか、昨日、一昨日と来るだけで何もせなんだが、鍔鬼が出るとなれば話は別よの。して、鍔鬼が主よ、一体何を披露しつくれる?」
携えた鍔鬼の姿を見て、淡雪姫はもう上機嫌だ。以前からしつこく鍔鬼に芸をやれと言っていたらしいとは聞いていたので、これも計算の内だ。
「して、そなたは何をしてくれるのじゃ?」
「はっ、鍔鬼が主、椿欽十朗、僭越ながら舞を奉じさせて頂きます」
言って、欽十朗は鞘から鍔鬼を抜き、その鞘を裸足の足元近くへと置いた。適度に湿った土の感触を足の裏が指で掴む。
幼少の頃より幾度も繰り返した動きを、なぞる。持っている剣が鍔鬼のせいか、軽い。腕の一部のように、馴染む。丘山が笙を狂いなく吹いてくれるお陰で、動き易い。
「待てぃ!」
高く、鍔鬼を掲げた時だった。淡雪姫が声を張り上げた。
「お主…何じゃその腕は!?忌まわしい…そのような不浄の手で、神に奉ずる舞を舞ったと申すか!」
ああ―――…
鍔鬼は人には聞こえぬ、金物の声で悲鳴を上げた。
黒く、煤けたようなあの腕。黒く染まったあの、呪の力を受けた、跡。欽十朗は知らない。知らなかったのに。もし、欽十朗が、欽十朗が、私との縁を、絆を否定したら……
「…申し訳ありません。洗っても、落ちないもので」
「もう良いわ!下がれ!穢らわしい!目に入れるのも…」
「淡雪」
それまで事の成り行きを見ていた松露の君が立ち上がり、激昂する淡雪姫の肩に手を置いた。
「止めなさい」
「ですがっ…」
「彼の剣舞が宴に相応しいものかどうかは、私が決めるべき事だ」
松露の君の口調は柔らかく、しかし厳かであった。何か言いたげに口を開いた淡雪姫も、不満気な顔で言葉を飲み込んだ。
少しの間を置いて、丘山が再び笙を吹き始める。欽十朗に取って、鍔鬼に取って勝手の良い旋律から。
中断されたにも拘わらず、音に迷いがない。丘山らしい、と笑いたくなる一方で、この迷いのなさが、あの誇り高い狐が産まれ持った強みかも知れなかった。
「……」
ああ、来る。
波に乗る。流れが来る。霧のように溜まった何かが、流動し始める。
体が軽い。刀の重さを感じない。
伸び、泳ぎ、煌めく。水を得た魚のように、鍛え上げられた清い鋼が。
そして曲が終わり、欽十朗が静かに鍔鬼を刀に収めた時、たった一つ、拍手があった。
「梅花皮を統べる人の子よ、梅の名を冠した護り刀よ」
しんと静まり返った中、さわさわと風に、小さな白い橘の花が枝が葉が揺れる。
「見事であった。褒美を取らそう。来よ」
杓を使って、手招きをする。
欽十朗が手を離して、鍔鬼が人型を取る。ゆっくりと、御前に歩み寄る。
今解った。神は、この、松露の君だ。淡雪姫は近いが、違う。神ではない。対峙した途端に、恐怖ではない何かから、冷や汗が滲む。それがないのだ。
「手を、此に」
欽十朗が左手を出すと、松露の君は苦笑した。
「右手で良い。この錆びは、決して忌むべきものではない。そなたの目許にある傷と、同じように」
「はい」
「禊紅梅鍔鬼よ」
「はい」
「良い主を持ったな。受け取るが良い」
手を差し出した主従の手に、紅い宝珠が授けられた。しかしその宝珠は直ぐに、欽十朗の錆びだらけの手と、鍔鬼の中に溶けてしまう。
「山野より来る楽士よ、そなたも見事であったぞ」
「もったいなきお言葉に御座います」
「しかし、褒美を授ける訳にはいかぬ。そなたは未だその時期を迎えてはいまい。焦らずに待て」
「肝に銘じまして…」
どうやら、土地神ともなれば何もかもお見通しらしい。宝珠といえば、妖狐が喉から手が出る程欲しがる代物だ。松露の君は、丘山もその手合いであると見抜いたのだろう。
「では、私は舞を受けた。人の子よ、そなたの働きと魂の高潔に応えて、神意を見せよう」
松露の君がすいと上を向くと、瞬きの間にその姿は一尾の龍へと変じた。黒に近い緑中に、まるで朝露のように光る銀がある。鱗の一枚一枚が不思議な光沢を備えているのだと知るや否や、雄々しき龍は空へと昇った。
螺旋を描くようにしてうねり、渦巻き、銀の鬣が靡く。角は鹿に似て鋼、爪は虎に似て石英、両の眼は鷹に似て瑠璃色を成し、本当に、息を呑む間もない位、美しかった。
その龍が長い尾をくゆらせる度に、ちらほらと浮いていた灰色の雲を払う。銀河の星々に呼応するかのように鱗が煌めき、剥がれ落ちたそれが幾つか、梅花皮の谷に降り注いだ。
酒が皆に行き渡り、幾人かが酔って潰れそうになっている。
丘山が良い例だ。訳の解らない事を一言二言呟いて、寝入ってしまった。あれで案外、酒には弱いらしい。
対して、欽十朗は笊なようで、先程から一人で妖の仕込んだらしい山査子の酒をやっているが、一向に酔う気配がない。
鍔鬼は鍔鬼で、刀だから酔う筈もなく、適当に飲んだ後は淡雪姫と差し向かいで、連歌の応酬などしている。応酬、とは歌遊びには到底相応しくないが、そうとしか言いようのない状態だった。何だかんだ、二人は仲が良いらしい。
「…淡雪は、」
ふと、後ろから声を掛けられ、欽十朗は会釈して隣を空けた。
「あの子は、先の飢饉で死んだ子で…死んで荒野を彷徨っていた所を拾ったのだよ。もう、私の娘みたいなものだ」
「そうでしたか」
先の飢饉、というのが一体何時の時代かは分かりかねたが、人である欽十朗に取っては、遥か昔の事なのだろうと知れた。神の瑠璃で出来た目の色が、深い。
「宴は、あの子の為に始めたのだ。いや…それが、結局はわたしの為だったのやも知れぬ」
「幸いな事です」
山査子酒を注いだ杯を差し出すと、優しい龍はにっこりと微笑んだ。
「また次も、あの子を伴って、橘の花を見に来ても、良いだろうか?」
「歓迎します」
温くなった酒は舌に甘く、雲一つない空は益々燦然とし、橘は世の盛りと咲き乱れている。
恐らく次の宴に自分は生きていないだろうが、もしもこの土地に住むもの達が、若しくはその子孫がまた、同じように入り混じって歌い踊るのなら、と、遥かな未来を思わずにはいられなかった。